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更新:2021.10.27

 夢を尊重せよ。われらの陸海軍は皇国こうこく三千年の夢を実現しつつあるではないか。偉大なる夢と月々火水木金々の努力、斯かくして偉大なる現実は生れるのだ。夢無くして科学は無い。科学の進歩は天才の夢に負う所如何に多大であるか。科学史の毎頁まいページがこれを証明している。現実に先行する夢なくして現実の進歩はない。今や完全なる勝利か、然しからずんば国民一人残らずの死あるのみである。眼前の現実に跼蹐きょくせきして、徒いたずらに物資の不自由を喞かこつことをやめよ。卑小なる保身を離れて、偉大なる夢を抱け。私は一つの夢を語ろうとする。無論、昔日せきじつの悪夢を語るのではない。昔日の悪夢は悉ことごとくかなぐり捨て、私の力の許す限りに於おいて、大いなる正夢を語ろうとするのである。

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巨人の脈搏

 世界の国という国がその総力をかたむけ、大地球の全面をゆるがして戦いつつある時、日本国の威力が東半球を風靡ふうびし、つい四五年前までの国民には架空の夢でしかなかった偉大なる事業が、いま彼等の眼前に実現されつつある時、前線の勇士達は、その一人一人が神となって今の世の神話を創造しつつある時、聖戦完遂かんすいの心臓部、日本陸軍省はひねもす夜もすがら、頼もしく力強き搏動をつづけていた。

 この巨大なる心臓は、些々ささたる戦況に一喜一憂いっきいちゆうすることなく、如何いかなる場合にも冷静にがっしりと規則正しく脈搏うっていたが、しかし極めて稀まれには、大いなる憂うれい、大いなる喜びのために、その鼓動を早めることがないとは云えなかった。陸軍大臣官房の少年給仕高橋喜一たかはしきいちは、少年の敏感さをもって、時としてこの巨大なる脈搏の変調を直感することがあった。

 今日も、高橋少年はその変調をひしひしと身に感じていた。実にただならぬ気配であった。真珠湾しんじゅわん攻撃の歴史的報告がもたらされた時、昭南島しょうなんとう攻略、コレヒドール攻略の快報に接した時、巨人の心臓も流石さすがに大きく脈搏ったのであるが、今日の気配はそれらとは全く種類を異にし、しかもそれらの場合と同じほどの、或あるいはそれ以上の重大性を持っているかに直感せられた。もしかしたら、これは喜びの胸騒ぎではなくて、大いなる憂いのためのものではないのかと、一少年給仕すら、全身に脂汗あぶらあせの流れるような興奮を覚えたのである。午後三時頃から、大臣室に隣りする小会議室に何かしら極きわめて重大な秘密会議が開かれていた。高橋少年はこの種の会議は列席者が少なければ少ないほど、却かえって重大であることをよく知っていたが、今日の会議の列席者はごく少数であった上に、その顔振れが日頃の省内の会議などとは全く違っていることが、先まず彼に異様な感じを与えたのである。

 会議室のドッシリと重い楢ならのドアを開き、それぞれ常にない緊張の面持で室内に消えた人々のうち、半数以上は顔見知りの高官であった。陸軍大臣、参謀次長、航空技術本部長、兵器行政本部長、悉ことごとくが最高の長官ばかりである。

 外に背広服の人が三人、その内の一人は、同僚の少年給仕が失礼にもクスクスと忍び笑いを漏らしたほど風采ふうさいの上がらぬ老紳士であった。五尺に足らぬ小男の上に、少し腰が曲っているので、まるで一寸法師のような感じがした。折目の全く見えぬ羊羹ようかん色の黒の背広、行儀悪く背広の襟をはみ出している鼠色のカラー、今にもほどけ落ちそうなネクタイ、その上に棕櫚箒しゅろぼうきのように伸び放題にした胡麻鹽ごましお頭の痩せた黒い顔が乗っている。何週間も剃そったことがないのであろう、白髪まじりの赤茶けた鬚ひげが、頬と頭とを蔽おおい隠し、あまり恰好のよくない大きな鼻の上に、小さな玉の古風な眼鏡が、今にもズリ落ちそうにひっかかっている。どう見ても陸軍大臣と同席する風采ではない。

 密閉された大扉の中で、会議は三時間以上もつづいた。その間、省内の人々は会議室前の廊下に近づくことすら禁じられていた。大臣の秘書官さえも例外ではなかった。これほど厳重な秘密会議は数ヶ月来例のないことである。会議半ば午後五時頃、一度だけ密閉された大扉が開いた。そして、その中へ立入る光栄を与えられたのは高橋少年ともう一人の給仕であった。屋内電話によって、航空技術本部長自身の口から、七人分のサンドイッチと紅茶が命ぜられたのである。

 二人の少年は食堂から、大きな盆にのせた紅茶とサンドイッチを会議室に運んだ。高橋少年は、こういう場合の会議室内の光景に慣れていた。そこには一種のお芝居ともいうべきものが演ぜられているのを常とする。会議の参列者達は、それが真剣な会議であればあるほど、給仕などの入って行った時には、フッツリと密談をやめて、取ってつけたような冗談を取交わし、さも呑気のんきらしく笑い興じているのである。日頃真面目な陸軍大臣の口から、思わず吹き出すような洒落しゃれが飛び出すのは、必ずそういう場面においてであった。

 ところが、今宵は全く様子が違っていた。談話がフッツリ途切れたのはいつもの通りであったが、予期した冗談をいうものは一人もなく、一座はシーンと静まり返っていた。日頃物に動ぜぬ高官達の顔が、何事かただならぬ興奮に青ざめているかとさえ思われた。室内の空気までが、はち切れんばかりに緊張していた。

 その中にただ一つだけニコニコしている顔があった。例の不精鬚の風采の上がらぬ老紳士である。敏感な高橋少年は、一目見たばかりで、一座の中心人物が、陸軍大臣でも参謀次長でもなく、意外にもこの怪老人であることを直感した。ニヤニヤした不精鬚を取り囲んで、六つのいかめしい顔が、緊張に青ざめて微笑だもしない有様は、何だかびっくりするような、途方もない光景であった。

 陸軍大臣は肘掛椅子に深々と凭もたれ、右手で口髭をおさえるようにして、上眼遣うわめづかいに宙を見つめていた。引締った頬が緊張のためにピリピリ震えているのではないかとさえ思われた。参謀次長は肥ふとった身体を前かがみにして両手を膝につっ張り、じっと老怪人を見つめていた。その大きな両眼が異様に鋭くキラキラとかがやいていた。高橋少年には、それが決して憤りの表情ではなく、驚嘆と歓喜の混り合った表情のように感じられた。

 他の二人の軍服の長官は、申し合せたように腕組みをして、青ざめた顔でじっと前方を睨にらんでいた。その目の輝きは、圧おさえても圧え切れぬ興奮を語るものであった。

 背広の二人の人物も、その表情は同様であった。一人は無闇に煙草をふかしていたが、一吸いごとに煙草持つ手を灰皿に叩きつけて、まだたまりもしない灰を落そうとしていた。その手先が、かすかに震えているのが、高橋少年には何か恐ろしいもののように感じられた。

 二人の少年は、自分達の息遣いにさえ注意しながら、うやうやしく紅茶とサンドイッチの皿を配りおわると、追われるように室を出た。室内の緊張が彼等にも感染していたものと見え、楢の大扉を閉めた時には、ホッと溜息が出たほどであった。

 陸軍省の給仕達は、省内の出来事について、何かと噂することを堅く禁じられていた。殊ことに大臣官房附きの二少年は、高官の前に出ることが多いため、一層厳重な躾しつけをうけていたので、仲間同士でさえ、心に思うままを口に出すことはしなかった。二人はそのまま何気なく彼等の控室に下った。

 神経質な高橋少年は、その夜自宅に帰って床に入ってからも、会議室の異常な光景を忘れることができなかった。彼の経験によると、そういう重大な会議のあった数日後には、必ず何らかの形で世間を驚かすような発表が行われるのを常とした。あの奇妙な老紳士を取り囲んでの秘密会議は、一体どんな発表となって現われるのであろうと、彼はそればかり心待ちにしていたが、一週間たっても、一ヶ月たっても、それらしい出来事は何も起らなかった。高橋少年にとって、その日の重大秘密会議は永遠の謎であった。

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