映画「駅前」シリーズのきっかけとなった時代遅れの恋物語『駅前旅館』
昭和30年代初頭、上野駅前の柊元旅館で働く番頭の生野次平は、女に対して強引な態度は取れないし、仲間からもからかわれる程度の自称好色家です。
ある夜、遅い時間に風呂につかっていると、女が二の腕をつねって去って行きました。彼女はパトロンとともにやってきた於菊。面影は変わっていましたが、生野にとって因縁のある女でした。
- 著者
- 井伏 鱒二
- 出版日
- 1960-12-15
このように因縁のある女性との再会からはじまり、番頭仲間が愛人同伴の湯治を目論んだがゆえの騒動、というのが物語の軸となります。他にも出身地による客の性質の違いや呼び込みの手管、修学旅行の学生たちが巻き起こす騒動、美人おかみの飲み屋に集まる番頭仲間たちの珍妙さなども織り込みつつ、時代の波に翻弄される老舗旅館の番頭たちを描く傑作小説です。
於菊に美人おかみといった、自分に気がありそうな女性を前にしても一歩を踏み出せない生野の姿は、もどかしくもどこか共感してしまいます。古き良き時代の無骨で不器用な男を応援しつつ、読んでいただきたい1冊です。
たった一発の原爆に幸せを奪われた女性の生きた証『黒い雨』
原子爆弾投下より数年後の広島県東部。広島市内で被爆した閑間重松・シゲ子夫妻は後遺症で重労働をこなすことができず、養生のための行動で村人たちから怠け者扱いされてしまい、村の被爆者仲間とともに鯉の養殖をはじめようとします。
重松と同居中の姪・矢須子は縁談のたびに「市内で勤労奉仕中に被爆した被爆者」という噂が流れ、まったくまとまりません。そんなとき、矢須子に良い縁談が持ち上がり、なんとしてもまとめるたい重松は、彼女に健康診断を受けさせると共に、昭和20年8月当時の自分の日記を清書することにしたのです。それは日記により、矢須子が原爆のとき広島市内にはいなかった=被爆者ではないことを証明するためだったのですが……。
- 著者
- 井伏 鱒二
- 出版日
- 1970-06-29
井伏鱒二の『黒い雨』は、被爆者である重松静馬の『重松日記』と、やはり被爆した軍医・岩竹博の『岩竹日記』をもとにした作品です。そのため主人公の名前も重松静馬の名前からもらっています。連載時のタイトルは「姪の結婚」でした。
なおこの事実に関連して、井伏鱒二の死後、歌人の豊田清史が、『黒い雨』は重松静馬の日記をそのまま使用したものに過ぎないと主張した事実があります。この主張に対して、近代文学学研究者の相馬正一は「読者に『黒い雨』がいかにも『重松日記』の盗作であるかのような印象を与えた」と反論し、『重松日記』本文を改竄して『黒い雨』本文に近づけるような操作までおこなっていると批判しました。豊田の主張にはいくつもの虚偽があったことが、後に判明しています。
当の『重松日記』も刊行されていますので、『黒い雨』がその日記をそのまま使用したものに過ぎないかどうかは読者自身が確かめてみてください。2冊を読み比べてみることで、その真実と、『黒い雨』執筆の意味も見えてくることでしょう。
検閲を意識しながら、宣伝部隊について書いた井伏鱒二『花の町』
物語はシンガポールでの、日本軍の宣伝部隊の説明から始まります。この宣伝部隊が拠点にしているビルの近くに骨董屋さんがあり、なぜかペンキ屋さんと言い争っています。宣伝部隊所属の木山喜代三(作者本人がモデル)が事情を聞くと、新しくこしらえた看板の日本語があっているかあっていないかで揉めているそう。そこに、この看板の文字の手本を書いたベン・リヨン少年が現れ、木山とリヨン一家の関係が始まります。
井伏鱒二は第二次世界大戦中、陸軍の軍属として、当時日本軍の占領下にあった昭南(現在のシンガポール)に赴任しました。そのときの街の様子とそこに暮らす人々を、小説として落とし込み、戦争中(1942年)に発表したのが『花の町』になります。
- 著者
- 井伏 鱒二
- 出版日
この小説のおもしろさは、小説本体だけでなく「作家が検閲を意識しながら占領下の街を書いたらどうなるか」という読み込みができる点にあります。
小説が書かれたときのシンガポールは、元々はイギリス領。戦闘が日本の勝利で一段落し、戦況も逼迫してくる直前の、表向きは小康状態を保っていた時期でした。
作者の井伏鱒二は、実際にこの街を見て、物資の不足や占領した兵士の狼藉を見聞きしています。しかし日本国内で発表する小説に、日本統治下の都市が苦しんでいるなどとはとても書けない。当時は検閲があったので、いわゆる「リップサービス」をする必要がありました。
例えば現地の住人に、日本軍司令部を支持する発言をさせたり、新設された日本語学校が大変な倍率だという描写があったりします。
しかし行間から伝わってくるのは、しらじらしさ。どこか浮世離れした、事実は書いているけど真実はぼかしている、そんな雰囲気です。