王子に扮した青年は、その夜本当に異国へ『安南の王子』
20歳の仁はクラリネット吹き。仁は、同じくその日暮らしのジャズ仲間5人で楽しく暮らしていました。いい加減で無気力な性格でしたが、美しく品があり、いつも微笑んで決して反論しないことで仲間から信用と愛情を得るようになり、いつしかプリンスと呼ばれていました。
ある日メンバーが知り合いの資産家宅に招かれ、彼らは仁を安南から来た王子だと偽って訪ねようという遊びを思いつきます。難なく騙しきってその家を後にした彼らは大喜びしながら帰路につきました。
しかしふと気づくと、忽然と仁の姿が消えていたのです……。
- 著者
- 山川 方夫
- 出版日
- 1993-10-01
「安南の王子」は愉快で悲しく、美しくてぞっとする話です。何のよすがもなくただ日々を暮らしている彼らは、一見楽しい生き方のように見えていましたが、ふいに生が揺らぐときに断固踏みとどまるような理由が何もありません。
戦後は皮肉的でアナーキーになった若者も多かったそうですが、純粋であることには今と変わりはなく、仁たちのように貧しくとも自由を謳歌することで希望を見出す姿勢には、現代の読者の幾人かにも生きるヒントを与えるかも知れません。仁は最後に愛にたどり着いたことも仄めかされているのが救いです。
短篇5集が収録されています。
人を愛せないと信じていた青年に訪れたある変化とは『愛のごとく』
主人公の男は脚本を書いて生活しており、母、姉、妹を養って暮らしている実家ではいつも誰かの愚痴を聞かねばならなかったので、週末だけ間借りした部屋で仕事を仕上げていました。男は昔から自分にしか興味がなく、家族を養うことが生きる目的で、他人には何にも興味がありませんが、彼なりにバランスを保って生活していました。
その下宿先に、偶然再会した古い女友達が通ってくるようになります。彼は、今では彼の友人の妻になっているその女友達と、毎週関係を重ねるようになります。しかし他人に興味のない彼は、人との付き合いが面倒で、生活には立ち入られたくないと思っているのでした。
- 著者
- 山川 方夫
- 出版日
- 1998-05-08
主人公の男は他人に関心も情熱もなく、すなわち冷淡であり、通ってくる女も内心は物としか見ません。自分のスケジュールを乱されることを嫌がり、泣かれても余計面倒なだけです。その身勝手な様子が淡々と語られるのですが、結末には、それが真実だったのか分からなくなります。
彼は幼いときから自身を「異常」だと信じてきましたが、後半では果たして本当にそうだったのか不確かになり、混乱します。読者も、確かにこの主人公は自分で言う通りの人間だろう、とすっかり同意してきたわけですが、本当にそんな人間だったのだろうか、と疑わしくなるような展開が起き、翻って前半の、完全に読者をコントロールする山川方夫の技術にはっとするでしょう。
初めて自らの人間らしさを知り、愛を見出し、しかし思い込みからそれに気付くのが手遅れになった、自分を見下し過ぎたことで起きる痛切な物語です。
朧げな恋の始まりとその終わりを描いた山川方夫の作品『春の華客/旅恋い』
「春の華客」では、著者自身が語り手となり、リアルタイムで物語を作っていきます。
英子が18、草二がまだ20歳の学生のときに二人は出会いました。草二は英子を呼び出し、奇妙な提案をします。あくまで友達として月に一回、五時から九時まで有楽町で会う。英子を独り占めする気もないし、結婚するまでの間でいい、と。
不思議と気が合い、その提案に同意した英子。散歩したり、お茶をしたり、映画を観るだけの交際が一年が過ぎたころ、英子に結婚が決まります……。
- 著者
- 山川 方夫
- 出版日
- 2017-05-11
「春の華客」は本当に春らしい明るく柔らかい雰囲気が溢れています。しかし春は、出会いと別れ、希望と切なさが同居する季節。もちろん山川は、明るいだけの物語で終わらせません。
先に妙な提案をしたのは草二でしたが、後に英子がする思いがけない申し出とその真相には驚かされます。愛の始まりと終わりが同時に起こるのは、山川の好んだテーマのようです。
紺のコートに赤いパンプスの英子をはじめ当時の有楽町や銀座のモダンな雰囲気が伝わって、ロマンとノスタルジアに満ち二人の思い出をより淡く美しく幻想的に染めています。
後半の「旅恋い」も「春の華客」と同年、23歳の時の作品です。