戦後を代表する作家にして進歩的知識人堀田善衛
堀田善衞は1918年、冨山県高岡市に生まれます。慶應義塾大学在学中に現代詩の同人誌『荒地』に参加し、卒業後は、第二次世界大戦末期の1945年3月に国際文化振興会の派遣員として上海に滞在しました。後に堀田善衛は、この地での1年9ヵ月の生活が、戦後の生き方そのものに決定的なものをもたらしたと語っています。
1953年には朝鮮戦争に揺れる日本を描いた『広場の孤独』で芥川賞を受賞。その後は国内のみならず、中国、インド、中東、アフリカ、ヨーロッパを舞台とした、国際的な視点をもった作品を次々に発表してゆきます。
また、アジア・アフリカ作家会議の団長を務めて世界中の作家と親交を結んだり、1977年から11年間スペインに移住したりするなど、実生活でも世界中を精力的に動き回り、1998年に死去するまで戦後を代表する進歩的知識人として精力的に活動しました。
戦後の矛盾のなかで孤立する人間を描いた芥川賞受賞
『広場の孤独』は1951年、堀田善衛33歳の時に発表され、翌年に芥川賞を受賞した作品です。
当時の状況を振りかえってみると、1950年に朝鮮戦争が勃発、日本は戦争特需で沸く一方、いまだGHQの占領下にあり、公然とレッドパージ(共産党員、同調者の公職追放)が行われていました。本作は、そのような時代を背景にして書かれた作品です。
冒頭、主人公木垣が勤める新聞社で、ちょっとした騒動がもちあがります。
- 著者
- 堀田 善衛
- 出版日
- 1998-09-01
ことの起こりは、朝鮮戦争の戦況を告げる英文の電文でした。そこに記された北朝鮮の「共産軍」という言葉を、「敵」と訳すべきか否かで意見が二分したのです。
しかし木垣は、「敵」という言葉に違和感を覚えつつも、自分の意見を決定できません。彼は数年前の戦争体験で人間に対する深い絶望感を味わい、あらゆる立場へのコミットを恐れていたのです。
アメリカ人のハントによる「何故米国に頼らないで自力で防衛しようと思わないだろうか?」という問いにも、特需景気に酔いしれる労働者を見た中国人張国寿の「やはり日本人は(朝鮮)戦争を喜んでいる」という言葉にも、言い返すことができませんでした。
木垣は戦後の矛盾に覆われた日本、そしてその日本で働き、結果的に政府の片棒を担いでいる自分を責めさいなみ、孤独感を深めてゆきます。
「なにもかもが揺れ動き、なにもかもが解決していない―」(「広場の孤独」より引用)
しかし、本作の最後で、木垣はある決意をします。矛盾のなかから新しい自分を、そして新しい現実をつくるために……。
戦争中の社会の動きを知っている堀田善衞だからこそ描けた臨場感、痛いほどの緊張感を、ぜひ体感してみてください。
一人の中国人の目を通してみた戦争のリアリティ
1937年の中国・南京を舞台に、日本軍によって行われた数々の残虐行為が、詳らかに描かれたショッキングな小説です。
いわゆる「南京事件」に言及した作品なら他にもあるでしょう。しかし、この作品がとりわけ衝撃的なのは、それらの行為が、ひとりの中国人の目を通して語られているからでしょう。
- 著者
- 堀田 善衞
- 出版日
- 2015-11-18
裸にされて樹木に突き刺されたままの死体、10数人の日本兵にレイプされて動けなくなった少女、小学校の校庭で次々に斬殺される同胞……。主人公の陳英諦は、自身が目の当たりにした、言葉にすることさえ憚れる悲惨な光景を、冷然と、しかしこれ以上ない迫真的な筆致で日記に綴ってゆきます。
陳の身重の妻と息子も、日本軍によって殺害されました。その報せを受けた時、彼の顔面の筋肉は痙攣し、体中が震え、汗が吹き出し、失禁寸前の状態になったと語っています。
陳の日記には、この虐殺により○人が殺された、といった客観的記録の記述は見当たりません。ただただ彼が目にし、体験し、感じたことが記されています。著者が中国人を主人公にして読者に伝えたかったこと、それは、日本軍の残虐行為以上に、それをもたらした戦争そのもののリアリティだったのかもしれません。
「何百人という人が死んでいる……しかし何という無意味な言葉だろう。(中略)一人一人が死んだのだ。一人一人の死が、何万にものぼったのだ。」(『時間』より引用)