一作ごとに変貌する詩人、ジャン・コクトーのスリリングな詩集
「私の耳は貝の殻 海の響きをなつかしむ」(『コクトー詩集』「耳-カンヌ第五-」より引用)
今までコクトーの詩集を手にとったことのない方でも、この少ない言葉で様々なイメージが喚起される詩を、小中学校の教科書で目にした経験があるかもしれません。
この『コクトー詩集』には、その「耳」をはじめ、1920年以降に発表された『詩集』『寄港地』『用語集』『平調曲』『オペラ』から代表作が収められています。
- 著者
- ジャン コクトー
- 出版日
- 1954-10-22
「ヴィナスよ、まだ僕を愛してくれてありがとう。万一君を語らなかったら、 万一僕の家が自分の詩で出来ていなかったら、僕は足場を失って屋根から墜落するはずだ」(『コクトー詩集』「三十になった詩人」より引用)
多芸多才を謳われたコクトーですが、その活動の根源には常に「詩」がありました。彼自身も、なにより「詩人」と呼ばれることを望んでいたと言われています。
しかしながら、この詩集の「序」で本人も語っているように、一作ごとに作風を変え、つねに読者に新しい認識を要求するその詩は、同時代の読者を戸惑わせ、必ずしも思うような称賛を受けられませんでした。
自分の詩人としての評価を未来の若い読者に託すように、彼は綴っています。
「やがてして後世が僕の詩集を見る場合、美しい僕のスプリングに、その揺れ方に、通った道の高貴さに、驚きの目を見張るはず。」(『コクトー詩集』「平調曲」より引用)
自らのドラッグ体験を生々しく綴った手記
作家としては師弟関係、人間としては愛人関係にもあったといわるレイモン・ラディゲの突然の死。コクトーはその深く長い悲しみから逃れるため、阿片を耽溺するようになりました。
この本には、その阿片中毒から抜け出すために入院したサン=クルー療養院で、禁断症状と闘いながら綴られた断片のような手記とデッサンが収められています。
- 著者
- ジャン コクトー
- 出版日
「阿片は、気弱な愛好者や、不心得な人間は寄せつけない。阿片はこの種の人間は除けて通る。そして彼等の為に、モルヒネや、ヘロインや、自殺や、死を残して置く。」(『阿片-或る解毒治療の日記』より引用)
まるで阿片中毒から生還した自分を誇るような文章ではじまるこの本には、自らを破滅寸前にまで追い込んだドラッグへの呪詛や、周囲の人間への反省文めいた記述は一切ありません。
ここで語られているのは、あくまで一人の詩人に芸術的霊感を与えてくれた阿片の効用、そしてそこから導き出された新たな芸術論なのです。
「禁断状態の八日目にある患者に僕はおすすめする。片腕で頭を抱えて、その腕に耳を押しあてて、さあ待って見給えと。そうしたら、その耳は聴くはずだ。瓦解だの、爆破される騒動だの、遁走する軍隊だの、洪水だのという人体の星月夜の下に行われる全ての啓示を。」(『阿片-或る解毒治療の日記』より引用)
阿片によるイメージを具現化したような、奇妙でグロテスクなデッサンも必見です。
読者の斜め上をいく、ジャン・コクトーのナンセンスな処女小説
1913年、ストラヴィンスキーとロシア・バレエ団による『春の祭典』初演に衝撃を受けた24歳のコクトーは、それまでの自分の作風と決別し、まったく新しい作品に取りかかることを決意しました。
それが、ストラヴィンスキーに捧げられたこの奇妙な小説『ポトマック』です。
- 著者
- ジャン コクトー
- 出版日
目次からして「面白く終るようなお話は却っていっそうつまらなく終るもの」「道草食い」といったナンセンスなタイトルが並ぶこの作品。
ある新婚夫婦の夢に侵入し夫婦を食い殺すウージェーヌ、パリのマドレーヌ広場の地下にある水族館でいつも寝そべっているポトマックといった謎の怪物たちのエピソードを中心としながらも、明確なストーリーは存在しません。
飛躍の多い文章と、突如挿入される詩やマンガ風のデッサンは、普段一般的な小説に馴染んでいる読者には、頭の中で「?」が続くような、今まで味わったことない印象を残すでしょう。
コクトーはこの小説を書き上げると、それまでの自分の3冊の詩集をすべて絶版にし、この作品を自身の処女作にしました。
「あり得たかもしれないもの、省略されたものの、神秘な美しい重みを君は知っているか? 余白と行間、アルジェモーヌ、そこには犠牲の蜜が流れている。」(『ポトマック』より引用)
そう、ここには終生にわたって詩を手放さなかった詩人の、まったく新しいポエジーが躍動しています。余白と行間を軽やかに飛び跳ねる、詩人のアクロバティックな精神の運動を、ぜひ一度感じてみてください。