老尼僧の愛と性『尼僧とキューピッドの弓』
多和田葉子がドイツの修道院に滞在したときの経験をもとに書かれた小説『尼僧のキューピッドの弓』本作は紫式部文学賞を受賞した意欲作です。
主人公である日本人の「わたし」は1000年の歴史を持つドイツの尼僧修道院を訪れます。そこで出会ったのは家庭を離れて第2の人生を送る個性的な老尼僧の面々。主人公は彼女たちと共同生活を送り交流を深めていくうちに、ある噂を耳にします。それは「わたし」を招いてくれた元修道院長の不在の理由が、彼女が引き起こした「駆け落ち事件」によるものだということでした。熟年の尼僧の禁断の恋愛。そこに「わたし」は興味を惹かれていくのです。
- 著者
- 多和田 葉子
- 出版日
- 2013-07-12
尼僧たちとの交流を描く第1部と元修道院長の半生を振り返る第2部で構成された本作では、著者によって読者が物語全体を俯瞰して見るしくみが作られており、多和田葉子が描く独特の世界にどっぷりと浸ることができます。
まず第1部で「わたし」が出会う沢山の老尼僧たちはそれぞれに1人の女性として生きた過去を持っており、修道院での役割やキャラクターが設定されています。作中、著者は主人公に憑依するようにしてそれを描き出していくのですが、その手法が大変チャーミング。尼僧侶たちそれぞれに漢字の渾名を付けるのです。「透明美」「老桃」「陰休」などと名付けられた彼女たちは、魅力的な言動で次々にストーリーを展開していきます。
そして迎える第2部では、1部で不在を貫いた元修道院長が語り手となることで、鮮やかに秘密が解き明かされていく様子が描かれます。老尼僧の愛と性。美しく収束してゆく多和田葉子の不思議な物語。ぜひ読んでみてください。
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3代のホッキョクグマによる美しい自伝『雪の練習生』
野間文芸賞を受賞した本作は「不思議な」世界観を持つ作品を多数発表している多和田葉子の著作中でも群を抜いて「不思議な」仕上がりの物語です。読み進めるうちに読者は次々に生まれてくる疑問を解き明かせないまま美しく詩的な文章の濁流に流されるような感覚に陥りますが、ひとまず素直に受け入れ、考えるよりも感じてほしい1冊です。
本作の主人公はホッキョクグマの「わたし」とその娘の「トスカ」そのまた息子の「クヌート」。本書には3匹のホッキョクグマの人生がユーモラスに描かれており、これは彼らが書いた自伝と形容するべき物語だと見受けられます。多和田葉子は人間ではなく、3代のホッキョクグマに自身の言語感覚を織り交ぜた不思議な自伝を書かせたのです。
- 著者
- 多和田 葉子
- 出版日
- 2013-11-28
第1章にあたる「祖母の退化論」は膝を痛めてサーカスの花形から事務職に転身し、自伝を書き始めた「わたし」の物語です。第2章「死の接吻」では娘の「トスカ」を主人公としており、彼女はサーカスで女曲芸師と伝説の芸を成し遂げます。第3章ではベルリンに移ったトスカの息子である「クヌート」が動物園で飼育員の愛情に育まれ、世界的なアイドルへと成長する姿が描かれているのです。
彼らは人間ではなくホッキョクグマという設定ですが、作中では時たま人間のように見え、それぞれが社会と関わり懸命に生きる姿は読者の目に大変美しく映ります。自伝とは、その人が生きた証の物語。多和田葉子が描いたこの不思議な小説は、私たちがうまく言葉にすることのできない、生の喜びや哀しみを巧みに表現しているように思われます。3代のホッキョクグマの人生を、是非、感じてみてください。美しい雪景色が見られるはずです。
「あなた」の奇妙な旅日記『容疑者の夜行列車』
伊藤整文学賞、並びに谷崎潤一郎賞を受賞して高い評価を得た『容疑者の夜行列車』は、13の物語からなる連作短編集です。
物語の舞台は夜行列車。主人公はダンサーとして世界を旅する女性である「あなた」です。各小説は「パリへ」に始まり「モスクワへ」「ウィーンへ」「ボンベイへ」など、「あなた」がこれから向かおうとする土地の名前がタイトルになっていますが、「あなた」は夜行列車に乗り込むたび、車内で奇妙な出来事に出くわします。
- 著者
- 多和田 葉子
- 出版日
本書は全体を通して2人称で書かれており、読者は「あなた」と繰り返し呼びかけられることで「あなた」に起こる奇妙なできごとを追体験させられます。多和田葉子によるユーモアに溢れたこの仕掛けは、読者を巧みに物語の世界へと引き込んでしまうのです。
「駅の様子がちょっとおかしい。ホームに人が嫌に少ないのである。それに、駅員たちがそわそわとして、何か秘密でも隠しているようである。駅員をつかまえて、どうかしたんですか、と尋ねるのも妙であるから、黙って観察しているしかない。駅全体が化けの皮をかぶっているのに、あなたはそれを剥がすことができずにいる。」(『容疑者の夜行列車』より引用)
上記引用は「パリへ」の冒頭部分です。出発する駅の様子についての状況説明が淡々となされた一段落ですが、すでに読者は「あなた」の旅のはじまりに不安を覚えていることと思います。「あなた」は、この旅で誰に出会い、何を見るのでしょう。無事、目的地にたどり着けるのでしょうか。多和田葉子に演出される、幻想的で不思議な「あなた」の旅。未知の読書体験が待っています。ぜひ、出発してみてください。
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