息を飲まされる小説集『出発は遂に訪れず』
1963年に刊行された本書は1947年に発表されたデビュー作「単独旅行者」やシュルレアリスム的な作品として知られる「夢の中での日常」など9編の作品が収録され、島尾敏雄文学を心ゆくまで堪能できる内容となっています。入門書としてもおすすめの1冊です。
表題作「出発は遂に訪れず」は、太平洋戦争中、彼が第十八震洋特攻隊の指揮官として奄美群島加計呂麻島で待機の日々を過ごしていた際、特攻の命令を受けての待機中に唐突に敗戦を知らされたことの記憶にもとづいて執筆された私小説であり、島尾敏雄を知る上では欠かせない作品とされています。
- 著者
- 島尾 敏雄
- 出版日
「重なり過ぎた日は、一つの目的のために準備され、生きてもどることの考えられない突入が、その最後の目的として与えられていた。それはまぬかれぬ運命と思い、その状態に合わせて行くための試みが日日を支えていたにはちがいないが、でも心の奥では、その遂行の日が、割けた海の壁のように目の前に黒々と立ちふさがり、近い日にその海の底に必ずのみこまれ、おそろしい虚無の中にまきこまれてしまうのだと思わぬ日とてなかった。でも今私を取りまくすべてのものの運行は、はたとその動きを止めてしまったように見える。」(『出発は遂に訪れず』より引用)
特攻の命令を待ち、死を覚悟して過ごす日々は、一体どんなだったのでしょうか。
重厚な文体で綴られる、出撃の直前でその歩みを止められたことに対する島尾敏雄の複雑な思い。それは戦争のない時代を生きる私達には味わうことのできないものであり、だからこそ静かながら迫力を持った彼の文章が読者の心を動かします。島尾敏雄にしか書けない作品。一読の価値があります。
戦争の記憶と夢『その夏の今は・夢の中での日常』
本書は島尾敏雄による戦時体験をもとにした記録的な作品と、彼が見た夢を文学として表したとされる超現実主義的な作品とが併録された1冊です。
前半には戦後文学賞を受賞した「出孤日記」や上に挙げた「出発は遂に訪れず」に加え「その夏の今は」が収録されています。
太平洋戦争中、出動命令を受けた彼は死を覚悟しますが、号令待機中に終戦を迎えることとなり、唐突に命が救われたことを知りました。その特異な体験を時系列に沿って書き表した本作では、彼の立場から見たリアルな戦争を知ることができます。全編を通して生と死の狭間で揺れ動く特攻隊長としての心情が非常に詳細に描写されており、読者の胸に迫る1作。
- 著者
- 島尾 敏雄
- 出版日
- 1988-08-04
後半にははいずれも彼が実際に見た夢をそのまま書き表したとされる現実主義的な作品「孤島夢」「夢の中での日常」「鬼禿げ」「島へ」の4作品が収録されています。中でも表題作である「夢の中での日常」はシュルレアリスムの観点から非常に高く評価されており、ぜひ読んでおきたい1作です。そのあらすじは以下の通り。
「私」がスラム街にある慈善事業団の建物に入っていくところから物語ははじまります。自分が小説家であると思い込んでいる、という少々奇妙な状態にある「私」はその建物の屋上で集団生活を営む不良少年たちの噂を耳にし、新たな小説の題材のために仲間として入団しようとするのです。そこで年若い少女に手を出すことを企む「私」は癇病を患う小学校時代の友人からゴム製品のようなもの――コンドームを買い求めます。
そこからは「他人の夢」としか言いようのないおかしな世界が脈絡なく繰り広げられ、それは言葉にすることがむずかしいほどの奇妙さで、巧みに読者を醒めない夢の世界へと連れて行きます。
特異な体験を持つ島尾敏雄の凄さを痛いほどに体感できる1作。ぜひ読んでみてください。
遺作にふさわしい小説集『魚雷艇学生』
野間文芸賞を受賞したことで知られる『魚雷艇学生』は、島尾敏雄が1943年に九州帝国大学を繰り上げ卒業したのちに海軍予備学生を志願し、訓練を受けて1945年に第十八震洋隊の指揮官として奄美群島加計呂麻島に赴任するまでの日々を時系列順に記した戦争記録文学作品です。
全7章から構成される本書は島田が6年にわたって発表した自伝的小説をまとめたものであり、1985年に刊行されています。彼はその翌年69歳で脳梗塞により逝去したため、これが事実上の遺作となりました。若い日の記憶を掘り起こすようにして綴られた渾身の1作です。
- 著者
- 島尾 敏雄
- 出版日
- 2011-07-08
「特攻隊などはるかな他人事であったのに、まさかまともに自分の頭上にふりかかってくるなど思ってもみないことであった。急に入江の海や周囲の山の姿、そして雑草や迷彩を施した学生舎の粗造りの木造の建物にまでへんないとしさを覚えた。」(『魚雷艇学生』より引用)
上の引用は本書に収録されている川端康成文学賞を受賞した短編小説「湾内の入江で」の一節ですが、魚雷艇学生が特攻隊に志願することが認められ、志願者を募ることが発表された日に抱いた島尾敏雄の心情が率直に描かれているように感じます。彼を含む学生らは不意に与えられた一日の休暇を落ち着かない気持ちで過ごし、就寝前に特攻隊への参加を志願するか否かを書き記した紙を提出しました。
特攻隊を志願することは若い死へとまっすぐに繋がってしまうものだと、訓練学生達は皆十分にわかっていました。彼らはそれぞれどんな面持ちで、戦争と向かい合っていたのでしょうか。太平洋戦争を生きた人々について知る上で、非常に意味のある1冊だと思います。