尖鋭な感覚で内面世界を描いた『月に吠える』
これまでの定型詩とは決別し、口語自由詩を確立させた、朔太郎の処女詩集。当時の詩壇に衝撃を与え、彼を一躍有名にした詩集であり、現代に至るまで様々な影響を与えている詩集です。
序に、朔太郎の「詩観」ともいうべき一文があります。
「すべてのよい抒情詩には、理屈や言葉で説明することの出来ない一種の美感が伴ふ。これを詩の【にほい】といふ」
(『月に吠える』より引用)
詩の「にほい」とは、どんなものなのでしょう……。
さまざまに思いを巡らしてしまいそうですが、ここはまず、何の先入観もなしに、詩に直接触れてみることをおすすめします。
- 著者
- 萩原 朔太郎
- 出版日
- 1999-10-25
この詩集の中で、教科書にもよく取り上げられる有名なものが「竹」という作品です。
「かたき地面に竹が生え、
地上にするどく竹が生え、
まっしぐらに竹が生え、
凍れる節節りんりんと、
青空のもとに竹が生え、
竹、竹、竹が生え。」
(『竹』より引用)
竹が力強く生えている姿が目に浮かんできます。しかし、それは、ただ単に竹が生えているだけの描写でないことを感じるのではないでしょうか。
まだ夜が明けてからすぐの、早い朝に、ふと目にした竹。ただこれだけの情景の中に、さまざまな感情や自分の存在が重なり、詩となって現れてくるのです。そして、この詩を読んだとき、読み手が受け取る感触というものは、人それぞれ異なっているのだと思います。
詩の「にほい」……。
萩原朔太郎の代表作でもあり、第一詩集でもある『月に吠える』で、この、詩の「にほい」を感じ取ってみてください。
萩原朔太郎の作品をお得に読む
疲労感・倦怠感・憂鬱を詩へと昇華させた『青猫』
1917年~1923年の時期の作品55編を収録した詩集。
後年の回想で、「青猫を書いたころは、私の生活のいちばん陰鬱な梅雨時だった」と述べています。実際、1919年、見合い結婚をした上田稲子との生活の破綻が重なっています。
所詮、人間は経験を通してしか、現実の認識を得ることはできません。芸術作品にとって、作者のプライベートが色濃く反映されるのは、一般的な人よりも鋭敏な感性を持つがゆえに、宿命ともいえるのかもしれません。
詩は、表現の手段が「言葉」という実用的なものであるだけに、よりいっそう私生活の影響が色濃く表出してくるように思えます。
- 著者
- 萩原 朔太郎
- 出版日
この詩集の自序の中で、朔太郎はこう書いています。
「『月に吠える』には、何の涙もなく哀傷もない。だが『青猫』を書いた著者は、始めから疲労した長椅子の上に、絶望的の悲しい身体を投げ出して居る。」
(『青猫』より引用)
確かに、両詩集の間には、明らかな違いがあり、『青猫』が『月に吠える』の単なる延長線上の作品集ではないことが感じ取れます。
「おるがんをお弾きなさい 女のひとよ
あなたは黒い着物をきて
おるがんの前に坐りなさい
あなたの指はおるがんを這うのです
かるく やさしく しめやかに 雪のふってゐる音のように……。
おるがんをお弾きなさい 女のひとよ」
(『黒い風琴』より引用)
先に引用した作品『竹』は、純粋に「詩」というものを追求する姿勢を感じるのに対し、この詩では「自分」という存在を詩にかぶせているような、そんな雰囲気の違いが感じ取れるのではないでしょうか。
それにしても、美しささえ感じるほどの詩です。疲労感や倦怠感をつづったものでさえ、そこに美しさを感じさせてしまうところは、詩人のもつ技量の凄みを感じます。
詩人の鋭敏な感性で諸事をえぐったアフォリズム『虚妄の正義』
詩人特有の鋭敏な感性と深い考察が詰まった箴言集。その内容は多岐にわたり、「結婚と女性」「芸術について」「孤独と社交」「著述と天才」「思想と闘争」等、全7章です。
重版に際しての自序の中で印象的な言葉があります。
「かくの如く今日では、芸術も、風俗も、社会も、政治も、一切の者が混沌としている。今や我々の時代に於て、実に「正体を有するもの」は一つも無い。一切が狸雑《わいざつ》と矛盾を尽して、得体のわからぬ妖怪変化が、文化のあらゆる隅々を横行して居る。」
(『虚妄の正義』より引用)
生涯、文学の世界に生きた、萩原朔太郎という稀有な詩人が、その時代から感じ取ったものは何だったのでしょう……。
- 著者
- 萩原 朔太郎
- 出版日
上に引用した一文は、朔太郎の時代のみにあてはまることではなく、どの時代においても、同じようなことが言われ続けているのではないでしょうか。
実際、朔太郎自身も、この著書の「文明は進歩しない」という項で、文化は各時代それぞれに特色があり、他では換えられない独立した窓を持ち、その一点によって、他の時代にまさっている、ということを述べています。
結局のところ、時の流れの中で、さまざまな要素が絡み合い、混沌とし、それを秩序立てようとし、そしてまたそれを打ち壊して新しいものを生み出そうとする……この繰り返しの中で、時代というものは形成されていくのだという、示唆に富んだ内容です。
そして、読み進めていくうちに、読者はあの有名な散文詩『死なない蛸』に遭遇します。
水族館の水槽で、その存在を忘れ去られてしまった蛸が、餌も与えられないまま飢えていて、ついには自分の足を食べ始め、次に内臓を食べ、最終的には自分自身をすべて食べつくしてしまうという散文詩です。
事実のみを抽出して言ってしまうと、「一匹の蛸の死」
しかしそれは、具体的に描かれながらも、抽象的な奥行と広がりを持つ文章で、瞬時に不思議な感覚に囚われ、詩人は、何が言いたかったのだろう……と、何度も何度も読み返してしまう力を持っています。
そして、最後の一文を読んだとき、この詩が脳裏に焼き付けられるのです。
「けれども蛸は死ななかった。彼が消えてしまった後ですらも、尚且つ永遠にそこに生きていた。古ぼけた、空っぽの、忘れられた水族館の槽の中で。永遠に、おそらくは幾世紀の間を通じて、或る物すごい欠乏と不満をもった、人の目に見えない動物が生きて居た。」
(『死なない蛸』より引用)
消えてしまった後も、永遠に生き続けるもの……。
詩人が、生涯を通じて追い求めていたものは、それなのかもしれません。