レベルの高さに衝撃のデビュー作『もののたはむれ』
『もののたはむれ』は松浦寿輝のデビュー作です。14の作品が集まった短編集ですが、初期に書かれたとは思えないような完成度の高さとなっています。
- 著者
- 松浦 寿輝
- 出版日
- 2005-06-10
ここでは「雨蕭蕭」という短編をご紹介します。空は暗く、雨が降るある日のこと。雨に困った男は古い映画館に入って雨が止むのを待つことにします。しかし、入って映画を見るのはいいものの、なぜか映っているのは雨が降る情景。
男はそんなスクリーンをみながら物思いに耽り、その後映画館から出ると急に、もうさっき入った映画館には二度とたどり着けないといった確信が芽生えます。そして、今日あったことは実は全て存在すらしていなかったのではないかと、妙な気分に支配されてしまうのです。
将棋がテーマになっている「千日手」もなんだかんだとしているうちに、自分の存在までもがふわっとしたような、そんなふうに思えてきます。松浦寿輝の作品は、いつのまにか意識が自分自身から一歩引いた場所に行ってしまう雰囲気があるのです。
見たり、聞いたり、触れたり、そうやって感じていた周りのことがふとした瞬間にあやしくなって、そのことに気を取られていると自分自身までが存在としてあやしくなってくる。そこに、この小説のシュールで幻想的な魅力があると思います。
松浦寿輝渾身の長編『名誉と恍惚』
『名誉と恍惚』は日中戦争当時の中国を舞台にした長編小説です。
主人公は外国人が居住する地区で活動する日本人警察官。あるとき、知り合いの骨董品店の主人を通し、陸軍参謀本部の少佐と、中国の秘密結社「青幇」を牛耳る頭目との面会を手引きしてしまいます。
その後、主人公は途端に仕事場から追放され、犯罪の汚名を着せられてしまうのです。そして逃亡生活を余儀なくされることとなり、波乱の生活が始まります。
- 著者
- 松浦 寿輝
- 出版日
- 2017-03-03
文章はリズミカルで、またエンターテインメント的な要素もあり、長編でありながら非常に読みやすくなっています。特に、魔都と呼称され、金、権力、政治的工作、麻薬に売春といったさまざまな黒い部分がごった混ぜになった上海を緻密に描きこんでいることろは必読でしょう。
日中戦争に突入していくというところで、人々はどのように日々の生活を送り、生きていたのか。そして、名前を捨て、過去を捨て去った主人公はどのようにして生き延びていったのか。この長い物語の中で、その一つ一つが明らかになっていきます。松浦寿輝渾身の一冊に引き込まれていくこと間違いなしです。
三島由紀夫が生きていたら……『不可能』
『不可能』は8つの連作短編からなる小説集です。
この作品は設定が独特で、1970年に市ヶ谷駐屯地で割腹自殺を果たした三島由紀夫がもしも、あの時死にきれずに生き延びていたら。というもので、三島の晩年が綴られています。
- 著者
- 松浦 寿輝
- 出版日
- 2011-06-22
「地下」では過去とくらべて精神的、肉体的にもすっかり衰えてしまったなどと書かれていますが、衰えてしまった身体とは裏腹に長時間自分の顔を眺めてしまうという、確かに三島らしい癖も見られるのです。
また、作中で三島は自信がいかに凡庸であるかに悩んでいます。その部分を少しご紹介してみましょう。ちなみに作中では三島の名前は使われず、本名である「平岡」の名前が使われています。
「ぬけぬけと生き延びてそんなことにぼんやり想いをめぐらせている俺は、しかしもはや天才でもなく、俗物でもない、ただの老人だと平岡は思った。普通の老人。しかし普通というのも薄気味悪いものだ。」
(『不可能』より引用)
わずか16歳にして『花ざかりの森』を書き上げると早熟の鬼才と言われ、45歳の若さでこの世から去った三島由紀夫。そんな普通とはかけ離れた三島が、この作品のなかではことごとく「普通」という範疇に捕らえられてしまいます。
現実には決して起こることのなかったことですが、このギャップがむしろ現実味を出しているのではないでしょうか。三島ファンの方はこれを読んで三島の老後を想像してみると面白いと思います。