珍妙なタイトル群『焦痕』
『焦痕』は気軽に読める短編集です。これからいくつかについて紹介していきますが、まずタイトルがどれも秀逸で、藤沢周のユーモアセンスが光っています。
- 著者
- 藤沢 周
- 出版日
まずは表題作である「焦痕」についてご紹介します。終電に乗り遅れてしまい、しかたなく新橋までタクシーにのり、そこから深夜バスに乗った男。今日はついていないといったようなところで、新たに乗ってきた男は、実は幼少期を一緒に過ごした幼なじみだったのです。
二人で過去を振り返る場面では、内容的には割と重たいはずなのですが、相手の男のとぼけたような感じがそれを中和していて面白く読めます。雰囲気を出すために、実際にバスに乗っている最中に読むのもいいのではないでしょうか。
次に紹介するのは「腹が痛い」という、なんともタイトルが気になる藤沢周の短編小説。
ある日、かつて共に会社で働き、社内恋愛の末、結婚した女から夫が不倫をしているのではとの電話が入ります。まさかあの男がそんなことをするはずがない、と思いつつも探りを入れる主人公。
ここからあのタイトルとどうつながっていくのか、そんなことを考えながら読むと、一種のミステリーになります。最後のオチは必見ですよ。
これまたタイトルが気になる「ぷちぷち」ですが、今回の主人公は珍しく佐久間という女性。デザイナーの井原に催促の電話をするところから始まり、そこからさまざまな出来事に対しての内情がこまかく挟み込まれます。
「殺すわよ、あんたッ。」「あんた達も、殺すよッ。」(『焦痕』より引用)
これらは佐久間がイラッときたときに出てくるフレーズですが、このような言葉が出てくるたびに、笑えてきて、読んでいて痛快です。藤沢周のおすすめ短編小説集、ぜひ読んでみてはいかがでしょうか。
不可解な事件が始まる『雨月』
『雨月』はラブホテルが舞台のちょっと変わった藤沢周の犯罪小説です。
茨城にあるゴルフ場が閉鎖され、それに乗じて鶯谷にある古いラブホテル「雨月」で働くことになった男。ここで淡々と働き、仕事にも慣れてきてようやく一年が過ぎた頃、北海道からきたという謎の女性田中裕子がやってきます。ある日、裕子は泊まっていた雨月の一室で鏡に知らない人間が映っていると言い始めると、そこから事件が起こり始めるのです。
- 著者
- 藤沢 周
- 出版日
- 2005-02-10
作中では四人の女性、田中、畠山、佐々木、杉原といった人たちが登場します。これだけの数の女性を、それぞれの個性をうまく出しつつ、描き分けていくのは非常に難しいと思うのですが、藤沢周は緻密な描写、その他諸々の技術を駆使して見事に描ききっています。
また、この作品は舞台設定からも察せられるように、かなりエンターテインメント的な要素が多分に含まれていて、普段芥川賞作家の本を読まないという方にはぜひともおすすめしたい一冊です。官能的な場面があり、ホラーもあり、サスペンスも含まれています。藤沢周は純文学、エンターテインメント、そんな分野を股にかける人物であることが認識できます。
剣道に天賦の才を持ったラップ好きの高校生『武曲』
『武曲』は藤沢周が手がける剣道をテーマにした長編小説で、2017年に映画化もされます。
ラップ好きの高校生、羽田融はちょっとした諍いがきっかけで、大切にしていたiPhoneを剣道部の部員に持って行かれてしまいます。その後剣道部のもとへ向かうと、なぜか防具を無理矢理つけされられて、勝負をする羽目に。剣道などしたこともなく、右も左も分からないような状態の融。そんな中で融はなぜか勝ってしまい、コーチの矢田部に才能を見込まれ、剣道をしていくことになります。
- 著者
- 藤沢 周
- 出版日
- 2015-03-10
あらすじだけ見ると、何てことはない青春小説ですが、やはり芥川賞作家の藤沢周の作品なだけあり、設定や描写はひと味違います。例えば、冒頭の部分を見てみると……。
「雪の一片でも、桜の花片でも、突かねばならぬ。斬るのではない。不規則に揺れながら闇に散る桜の花びらに息を凝らしてみて、このがんじがらめの居突きがすでに駄目なのだ。残像の揺らめきは確実に追えるのに、その今まさに動いている新しい一点に攻めの気持ちが届かない。」(『武曲』から引用)
まず入り方が秀逸なのです。かなり手が込んでいて、一気にこの小説に引き込まれていきそうな、そんな力強さがあります。
また、設定に関しては、高校の剣道部のコーチである矢田部と彼の父親との関係性。矢田部はかつて、自身の父親を剣で打ち負かしてしまい、父親は入院、寝たきりを余儀なくされています。この親子関係に羽田がどう関係していくのか、そこも見所だと思います。