早すぎた死を誰もが惜しんだ立原道造
立原道造は1914年(大正3年)、東京に生まれました。少年時代から秀才の呼び声高く、また早くから詩歌に興味を持ち、13歳で北原白秋を訪ねるなど行動においても早熟そのものでした。
勉学面でははじめ天文学に興味を持ち、やがて建築を志します。1933年、東京帝国大学(いまの東大)の建築学科に入学。1934年には、堀辰雄らによる同人誌「四季」に参加しました。しかし天から多くを与えられたかのような彼の人生は、わずか24年で終わってしまいました。1939年に第1回中原中也賞受賞直後しますが、その同じ年に結核で死去。もう少し生きていればどれほどのことを成し遂げたかと、多くの人が彼の死を嘆きました。
幻の田園を夢見続けた立原道造
まずは何よりも、立原道造の詩を紹介しなくてはならないでしょう。彼は生前、『萱草に寄す(わすれぐさによす)』、『曉と夕の詩』の2冊の詩集を出しました。詩の多くはソネットと言われる形式で書かれています。この形式では、4行、4行、3行、3行の4連14行で詩が書かれていきます。
- 著者
- 立原 道造
- 出版日
- 1988-03-16
道造の詩の題材の一つである「田園」。具体的には道造が毎年訪れていた避暑地、信濃追分のことですが、彼の詩の中に出てくる土地は、現実の信濃追分ではないと思ったほうがいいでしょう。
「夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへつた午さがりの林道を」(「のちのおもひに」より引用)
こんなふうに、道造は田園を夢見て何度も詩にします。けれどもその田園に人は出てきません。風は吹き生き物は鳴いているのに、その夢には誰もいないのです。
「――そして私は
見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた……」(「のちのおもひに」より引用)
誰も彼の話を聞いていないのは、不幸ではなく幸福なことではないでしょうか。彼は人と人の交渉を離れ、心おきなく孤独になって語る自由を得ているのですから。道造は寂しがり屋で、手紙魔でした。なのに詩の中では無人の時空間を求め続けたのです。人の心とは不思議なものです。
田園は、彼の夢見る孤独な自由を入れるための器だったのでしょう。だから道造は、孤独について歌いたいとき、何度も何度も、無人の田園風景に帰っていくのです。それは現実の世界では決して到達できないし、想像の中ですら長くは居られない、イメージだけでできた幻の田園でした。
そんな自由な孤独のイメージを「ああ、自分も思い描いたことがある……」と共有できる人にとって、道造の詩は限りない憧れを掻き立てることでしょう。
立原道造の最後の作品「長崎ノート」
死の前年の1938年、道造は旅をしています。行き先は長崎。誰もが自殺行為というこの旅は、どうして決行されたのでしょうか。
道造が長崎旅行の間に記した日記「長崎ノート」は、道造最後の作品です。残念ながらほとんど注目されていない日記ですが、この日記を追いながら実際に旅をしてみたドキュメントが、『立原道造への旅―夢は そのさきには もうゆかない』です。この本は、「長崎ノート」を読む数少ない機会を作ってくれます。
- 著者
- 田代 俊一郎
- 出版日
- 2008-12-15
読んで感じるのは、道造という人が、やはり尋常じゃない知性と感性を持っていたということです。奈良から始まり西に向かってゆく先々の風景描写や宿の描写は精彩に富んでいて、しかも体調は悪かっただろうに、道中はそれをあまり感じさせません。散文方面ではほとんど知られていない道造ですが、もう少し生きていれば、散文方面でも後に残るような仕事を残したのではないでしょうか。
が、同時に、読んでいると不安になってきます。長崎への期待感が、道造の中で膨れ上がっているのがわかるからです。あまりにも純真な部分が垣間見えて、それが危うさを感じさせるのです。案の定、長い長い旅の末に長崎に辿り着いた道造を待っていたのは、期待に比べればぱっとしない風景とボロボロの貸家でした。
その後道造は、体調を悪化させ床に伏します。そして翌年の春、息を引き取るのです。これは悲しい記録ではありますが、同時に道造の本音の声を知ることのできる貴重な資料でもあります。