読者の心を代弁するかのような語り口が魅力のエッセイ集
本書は向田邦子が突然の飛行機事故でこの世を去った年に刊行されました。他作品と同様、本書でも著者の鋭い観察眼が光ります。読み進めるうちに、まるで著者が読者の気持ちを汲み取り、文章にして代弁してくれているかのような不思議な錯覚に陥る稀有な作品集です。
- 著者
- 向田 邦子
- 出版日
- 2014-07-10
まず取り上げたいのは、前半に収録されている「浮気」。著者は日常で自身が経験する小さな「浮気」の数々について記し、ひとつエピソードを書き終えるたび「大きい本ものの浮気」について思いを巡らせます。
向田邦子は近頃通っている美容院が思わぬ休みということで、久しぶりに訪れる古い美容院へ。長い間留守にしていた家に久しぶりに帰ったような、懐かしい安心感がありました。しかし一方で、新しい美容院で自分を担当してくれている方に申し訳ないなという、 一縷の後ろめたい気持ちがあるのも否めません。この誰もが抱く感情を解釈し、下記のような文章にしたためる豊かな感性に、ハッとする読者も多いはず。
「長い間浮気していた夫が、二号さんのところから本妻のところへもどったときはこんなものかな、と考えながら目をつぶっている」
(『霊長類ヒト科動物図鑑』より引用)
そして極め付けは最後の一節。
「人生到るところ浮気ありという気がする。女が、デパートで、買うつもりもあまりない洋服を試着してみるのも一種の浮気である。インスタント・ラーメンや洗剤の銘柄を替えるのも浮気である。(中略)こういう小さな浮気をすることで、女は自分でも気がつかない毎日の暮しの憂さばらしをしている。ミニサイズの浮気である。このおかげで大きい本ものの浮気をしないで済む数は案外に多いのではないだろうか」
(『霊長類ヒト科動物図鑑』より引用)
何気ない文章ですが、女性の立場に立った語り口にドキリとする読者も多いでしょう。直接的ではなく、やわらかな文体という力を借り、当時の男性支配的な社会に対する抵抗を唱ったのではとも取れるような、静かな強さが魅力的です。
また、違う角度からの解釈もできます。没後残った遺品から、秘密の恋愛をしていたことが判った著者。1つエピソードを締めくくるとき、浮気をする人間の気持が少し判るのもこんなとき……と記している向田邦子。実は秘めた恋愛をしている著者が、それに対する罪の意識を間接的なかたちで表現したかったのではないでしょうか。
一方本書の後半に収められている「ヒコーキ」は、飛行機が苦手な読者には共感を覚える内容となっていますが、それ以上に不慮の飛行機事故で逝ってしまった著者を想い、心が締め付けられるよう。
「このところ出たり入ったりが多く、一週間に一度は飛行機のお世話になっていながら、まだ気を許してはいない。散らかった部屋や抽斗のなかを片づけてから乗ろうかと思うのだが、いやいやあまり綺麗にすると、万一のことがあったとき、『やっぱりムシが知らせたんだね』などと言われそうで、ここは縁起をかついでそのままにしておこうと、わざと汚いままで旅行に出たりしている」
(『霊長類ヒト科動物図鑑』より引用)
特にこの箇所は著者の気持ちが手に取るように伝わってきて、一度本をそっと閉じて著者の冥福を祈りたくなります。「ヒコーキ」が収められていることで、他のエッセイ集とは趣を異にした読後感を与える本作ですが、変わらぬ向田邦子節は健在。著者の世界に浸りたい愛読者の方も、また著者の作品に触れるのは初めてという方にもおすすめしたい、不朽の名作です。
あなたの暮らしを豊かにするヒントがきっと見つかる!向田邦子流生活の愉しみ
暮らしを豊かにするヒントが満載のこの本は、2003年出版のフォトエッセイ集。妹の向田和子との共著となっており、文章とともに数々の写真も楽しめる一冊です。
全5章のうち始めの3章は料理、器選び、服装やインテリアへのこだわりについて描かれ、後半は著者が旅した場所をたどる4章と、著者の人となりを語る5章で構成されています。
- 著者
- ["向田 邦子", "向田 和子"]
- 出版日
- 2003-06-25
無類の美食家としても知られた向田邦子。美味しいもの好きが高じて、昭和53年には妹の和子と東京、赤坂に小料理店「ままや」を開くほどでした(1998年に閉店)。テレビドラマの仕事で脚本を担当するときも、登場人物がどんな食生活を送っているのかを指針に執筆にかかっていたといいます。
本書には美味しいものへの探究心が垣間見られる著者のレシピが掲載。どこの家庭にもある基本的な調味料を使い、思い立ったらすぐ試せるような肩肘の張らないものばかりです。同じ材料を使い回して作る献立などは、向田邦子が忙しい執筆活動の中で試行錯誤して生まれた賜物。毎日買い物に行けない多忙な生活を送る読者も、きっと参考にできる工夫が詰まっています。
器選びや服装、インテリアを紹介する章ではこだわりが随所に表れており、著者をひとりの人間として身近に感じられます。特にそのファッションセンスは評判で、ハイブランドの服から手作りの服までお洒落に着こなしていたそう。自分の好みをしっかり理解して選ばれた物の数々は、自分をしっかり持つことの大切さを読者に伝えてくれるようです。
旅好きの作家としても知られた向田邦子は、国外問わず様々な場所を訪れ、そこで出会った印象深い瞬間を写真に残しました。まだ見ない新しいものに出合いたいと、好んで観光地化されていない場所へ足を運んでいたといいます。
最後の章には、親友だった植田いつ子、母親の向田せい、向田和子が語る「素顔の向田邦子」を収録。近しい関係の者のみが知る著者の人物像が浮かび上がります。
今もなお色褪せず人々を魅了し続ける、向田邦子のスタイルと暮らし。その魅力を存分に味わえる、世代を超えて楽しめる一冊。何度読み返しても、その度にきっと新たな発見があることでしょう。
向田邦子の世界に浸りたいときに!著者最後のエッセイ集。
次にご紹介するのは著者最後のエッセイ集となった「夜中の薔薇」。少し日常から離れ、向田邦子の世界に浸って一息つきたいときにぴったり!人生のエッセンスを一雫まで掬い上げるような巧みな表現力で、著者の半生が鮮やかに綴られています。
本のタイトルにもなっている「夜中の薔薇」は第1章の3編目に収録。短い1編ですが、著者の人間味を感じられる心温まる作品です。
- 著者
- 向田 邦子
- 出版日
- 2016-02-13
中でも女性の共感を呼ぶと思われるのは、3章のはじめに収録された「手袋をさがす」です。気に入った手袋がなかったのでとうとう買わずに一冬を過ごしたというエピソードを通し、自分はどう生きるべきかという著者の若い苦悩が繊細に表現されています。
22歳の著者が抱えていた揺れ動く思いがダイレクトに伝わってくるようで、読んでいるうちに思わず引き込まれ、時間を忘れてしまいそう。読み進めていくうち、自分と重なる著者の感情が次々と描かれているのに驚くと同時に、まるで自分の気持ちを代弁してくれているかのように感じる読者もいることでしょう。
手袋をきっかけに当時の上司からある忠告を受け、自己反省も兼ねて自分自身を率直に見つめた結果、著者が出した答えは「反省するのをやめる」ということでした。これをきっかけに著者は自分の欠点を直さず、むしろ「精神の分母」として生きてゆこうと決心します。
「しかし、生れ変りでもしない限り、精神の整形手術は無理なのではないでしょうか。私は、それこそ我ながら一番イヤなところですが、自己愛とうぬぼれの強さから、自身の欠点を直すのがいやさに、ここを精神の分母にしてやれと、居直りました」
(『夜中の薔薇』より引用)
著者は、あの時もらった折角の忠告は結果裏目に出てしまったと記しています。しかしそれが機となり向田邦子という人物や彼女の作品が出来上がっていったわけですから、読者の立場からは有難い事の流れと言えます。
「でもたったひとつ私の財産といえるのは、いまだに『手袋をさがしている』ということなのです」
(『夜中の薔薇』より引用)
という一文にも表れているように、決して驕ることなく自分を客観視していた著者が唯一自己肯定したのは、現状に飽き足らず常に良いもの、面白いものを求めて進もうとする自身の精神でした。
他にも著者の海外での体験や、食にまつわる数々のエピソード、「男性鑑賞法」に至るまで様々な随筆が収録されています。第1章の後半に収録の「焦げ癖」では、不注意で作った鍋の焦げを通し彼女の人生、人間観が静かに語られており、「手袋をさがす」と同様、時代を超えて読者の共感を呼ぶ名作と言えるでしょう。