3・「ナロードニキ運動」を描いた渾身の一作『処女地』
『父と子』に続く社会的な作品として、『処女地』があります。時代背景は1970年代、ロシアでは「ナロードニキ」という、農民をはじめとする一般民衆を啓蒙し革命を起こそうという動きが広まっていました。農奴制による封建時代から資本主義をすっとばして社会主義にまで発展しそうな思想です。
農奴解放令によって表面的には自由になったとされる農奴たちですが、実際には地主が資産家に代わっただけで、旧農奴たちは相変わらず賃金奴隷として売り買いされていました。その状況を打開しようと、インテリゲンツィアたちが農村に行き反乱を起こすよう説得して回るといった運動が「ナロードニキ運動」です。
しかしながらこの運動は、そう上手くはいきませんでした。活動したインテリゲンツィアの多くは中流階級以上、農民とはそもそも身分が異なります。それまで奴隷としてひたすら日々生きるために働き続けてきた農民たちが、突然反乱だ革命だと説得されてもピンと来ないのも無理はないように思えます。もちろん農民の支持を得て反乱に至った事実もありますが、政府によって弾圧されています。
- 著者
- ツルゲーネフ
- 出版日
- 1974-03-18
この作品はナロードニキ運動に情熱を燃やす若者が主人公となっています。ツルゲーネフの作家人生において晩成期の長編小説であり、かなり気合の入った作品であったと思われます。こう書くとツルゲーネフは過激で革命的な作家であるように思うかもしれませんが、ちょっと違うようです。
ツルゲーネフは最初の紹介でも述べたように、祖国ロシアにおける転換期をパリから眺めていました。自身は社会的活動の渦中にはおらずに、パリ在住の音楽家ヴィアルドオ夫人の元で純粋に文学に打ち込んでいたのです。そのためか、同時代の作家であるトルストイからは嫌われていたそうです。
しかしながらツルゲーネフのその客観的な視線が、当時のロシア作家とは違う文学性を生み出したのかもしれません。この作品は若者の革命の理想、挫折を通して、当時のロシアの社会的・政治的問題を表現しています。幼いころから農奴制度を嫌っていたツルゲーネフですが、農奴の実態もよく観察していたため、ナロードニキという思想が上手くいかない予感があったとも考えられます。そしてこの作品の中でも、恋愛を描くことは忘れないのがツルゲーネフの作品の特徴であるともいえます。
4・美しいロシアの自然を背景に、格差社会を描き出す『猟人日記』
25編の短編小説からなるツルゲーネフのデビュー作といえば、『猟人日記』です。このとき著者は29歳、当時ロシアでは進歩的な雑誌とされていた「現代人」に発表されました。大学時代、ツルゲーネフは熱心に農奴制廃止を主張する学生であったようです。
『猟人日記』は狩猟人を作者に見立てた日記形式の小説で、情景描写では美しいロシアの自然が鮮やかに表現され、それを背景に農奴制の中に生きる人々の姿を丁寧に描いています。貧しいながらも健気な生活を営む農奴たちと上流階級貴族との交流の中に、身分格差が如実に写し出されます。
ツルゲーネフはこの作品を発表した後、官憲に逮捕され監獄に入れられています。逮捕の理由はゴーゴリの死に対する追悼文を新聞に寄せそれが不穏な内容とされた、とも言われていますが、いずれにせよ目をつけられていたことは確かなようです。監獄生活は1カ月程度でしたが、その後何年か居住制限を受けたようです。
- 著者
- ツルゲーネフ
- 出版日
- 1958-05-06
『猟人日記』のうちの1作品である「あいびき」は、二葉亭四迷によって翻訳され、日本の作家に知れ渡りました。冒頭は秋の雨上がりに見られる美しい風景描写から始まります。しかしここでも恋愛がらみの男女のやり取りがみられ、農夫の娘の健気な様子を猟人(おそらくモデルはツルゲーネフ自身)が気づかれぬよう眺めているという設定です。
ロシアの農奴制度を嫌悪し、人生の時間の多くをパリで過ごしたツルゲーネフでしたが、帝国ロシアの自然を心から愛していたんでしょうね。上流階級として搾取したもので生活する立場でありながら、その中で暮らす素朴な農民の姿に美しさを感じ、あこがれに似た感情を持っていたのかもしれません。
5・晩年におけるツルゲーネフの率直な想い『ツルゲーネフ散文詩』
晩年のツルゲーネフは体調を崩していたせいもあり、『処女地』以降は社会的な長編小説は書いていません。彼がその作家人生の終盤に残した有名な作品と言えば『ツルゲーネフ散文詩』です。散文詩なのでテーマはバラバラで、著者がつづった文章の断片をかき集めて出版したような形態になっていますが、そこにはツルゲーネフの思想が垣間見えます。
散文詩の中には若者も美しい女性も登場しますが、老人や乞食も登場します。死を扱った作品もあります。健康を害している中で、自身に死の影が近づいていることを感じていたのでしょうか。どことなく儚い印象の作品や、死への恐れ、後悔の念が感じられる作品もあります。
印象的なのは乞食が出てくる作品です。乞食に何かほどこしをあげたいのに、持ち合わせがないもどかしさが描かれている作品があります。ツルゲーネフは生涯を通して、農奴制によって悲惨な仕打ちを受ける農民たちに対して後ろめたい感情を持っていたのかもしれません。
- 著者
- ツルゲーネフ
- 出版日
自身は上流階級の身分として、幼いころは迫害によって搾取したものによって生活し、学び、進学し、その後はロシアを出て音楽家の女性の支援を得てのうのうと小説を書いている。農夫たちの素朴さに魅力を感じながらも、自分とは違う世界に住む人間のように見てしまっている。自分の中の葛藤を、吐き出すように綴っていたのかもしれません。
表現のむずかしい感情、小説のなかに埋め込みきれなかった思想のエッセンスが込められた作品ともいえます。文章一行一行の間に何か深い物が秘められているように感じられます。ふとした時に何度も読み返してみたくなる作品です。