文筆生活の集大成を凝縮したような阿川弘之の最晩年の随筆集
本書は70年近くの文筆生活を向かえた著者による最晩年の随筆集です。師と仰ぐ志賀直哉の長編小説「『暗夜行路』の解説」をはじめ、第三の世代として文壇を盛り上げた作家で友人の吉行淳之介、狐狸庵先生こと遠藤周作をめぐっての座談会、北杜夫の『どくとるマンボウ航海記』の航路をなぞる旅行記と、バラエティーに富んだ随筆を収録しています。
- 著者
- 阿川 弘之
- 出版日
- 2015-08-28
なかでも小品「鮨」は、印象の強い作品です。地方でのセミナー終了後、東京行きの特急列車で帰路につく私は、関係者から会に参加したお礼に、当代わりの鮨をもらい受けます。中身を取りだすと、胡瓜巻きや玉子巻きなどの品が、きっちりと折り詰めの容器に収まっていました。
もらい受けた鮨の処置に私は悩むことになります。東京で友人と夕食の約束があるのですが、かつて飢えに苦しんだ体験を忘れられないため鮨を無碍に放るわけにもいかず、私は考えめぐらせた末にあることを思いつきます。それは果たして……。
地方でのセミナーを終えて列車で帰路につく私が、折り詰めの鮨をもらい受けたことから、その措置をめぐって筋を展開してゆく随筆風の作品です。筋立てで読者をひっぱるのではなく、志賀直哉風の端正な文章で、淡々と話を展開するその筆致が印象的です。飢餓に苦しんだ経験をもち、好意にもらい受けた鮨を無碍にできない男の心情は、作者の戦中から戦後にかけての体験と心情が下敷きになったものでしょうか。心象小説風の、どこか懐かしい香りのする小品です。
阿川弘之と娘の佐和子の書面のやり取りを収録する往復書簡集
決められたキーワードをもとに、阿川弘之と娘の佐和子が文面でのやり取りを展開する往復書簡集です。「手紙」や「仕事」などの身近なテーマから、「孤独」や「愛」といったちょっと扱いづらい重たいテーマまで、幅広い内容を取りあげています。
実の父娘が、あらためて文面でやり取りを行うのはどこか気恥ずかしさが伴うのでしょうか。まえがきを務めた娘の佐和子は、本書の冒頭で「まさか父と手紙をやりとりすることになろうとは、思ってもいなかった。」と、戸惑いを正直に述べます。
- 著者
- ["阿川 弘之", "阿川 佐和子"]
- 出版日
- 2000-06-07
文面には、ふたりの性格の違いや思考方法の違いなどが随所に現れています。たとえば「旅」についての書簡のやり取りを見てみましょう。
娘の佐和子は、父宛に自らの体験を下敷きにした旅のエピソードを綴ります。旅先のマジョルカ島での経験から、計画通りに物事が運ぶ旅よりも、その場の思い付きや行く先々の出来事によって、目的地の変更を余儀なくされる旅の方が、自分の性にあった旅だと述べるのです。そうした行き当たりの方が、父(弘之)にとっても、旅の性分に合うのではないか、と。
そんな佐和子の「旅」の捉え方を、阿川弘之は良しとはしません。そもそも旅とは、と疑問を呈したあとに、「旅」の定義をわざわざ辞書から引用して書きつけてゆきます。自らの体験を下敷きに説く佐和子に対して、娘宛ての文面にもかかわらず、わざわざ旅の定義から、文を書き起こす阿川弘之。さすが旅好きで知られた作家です。旅の文面の書き方をひとつ取っても、両者の違いは色濃く表れてきます。本書の読みどころは、そうしたふたりの違いが随所に見られる点にあると言えるでしょう。
阿川弘之、かく語りけり……
阿川弘之が8人の識者と意見を交わす座談集です。たとえば小中学校の国語教科書の問題をめぐっては斎藤考、好物の食をめぐって向田邦子、開高健と、師の志賀直哉については井上ひさし、小森陽一といった、一流の識者と対談を行います。なかでも「贅沢な旅」と題して行われた沢木耕太郎との対談は必見です。
この対談では、ふたりがこれまで経験した「最高の旅」と「最低の旅」についての意見を交わしたり、数々の船旅を経験してきた阿川が、ヨーロッパの船旅を沢木へすすめたりと、ふたりによる縦横無尽の旅談義を味わうことができます。
- 著者
- 阿川 弘之
- 出版日
- 2015-08-31
興味深いのは、沢木耕太郎が「旅が旅であるためには」の章で、「昔の文士が書いたものを読むと、国内での文士の旅って独特の豊かさというか贅沢があるような気がするんですが。」と阿川弘之に問いかける箇所にあります。海外旅行ばかりが持てはやされる近年の傾向を見るにつけ、国内旅行はどこかおろそかにされているのではないか、と沢木は指摘するのです。
かつて文士が残した旅行記のような風情が、国内旅行からは消えてしまったのではないか、との沢木の問いかけに、阿川弘之は「貧しいし、わりに無視されているようなところがあるかもしれませんね」と受け合います。
情報の行き渡った時代においても、情趣あふれる旅は可能なのでしょうか。読書の旅を振り返りながら、ふたりの問いかけを考えてみることも悪くないのかもしれません。