戦後、混迷を極める日本で、最大の権力を握った男、吉田茂に最も近かった白洲次郎。実直に、ひたすらに日本の国益と未来を考えた男が魅せる生き様。現代にも通じる日本男児の男らしさを、白洲次郎の著書を通じて紹介していきます。

1:少年時代は手のつけられない不良だった
白洲家は摂津国三田藩の学者の家系で、父・白洲文平は白洲商店という紡績業を営む企業を興して当時莫大な利益をあげていました。彼は実業家であり豪放な性格でもあった文平の子として生まれ、父の性格をしっかりと受け継いで「傲慢」と言われる手のつけられない不良少年へと成長します。
当時は、白洲がいつ問題を起こしても対処できるように菓子折りが常備されていたそうです。父は彼に通常では考えられない額の小遣いを1年分だと言って渡したり、中学生なのに車を買い与えたりするなどし、凄まじい金銭感覚で育った白洲はやがて親でも手に負えなくなりました。
そこで父が考えたのが、後に本人が「島流しだった」というイギリス留学です。
2:終生の友となったストラフォード伯爵
彼の父が選んだ留学先はイギリス・ケンブリッジ大学です。しかしこれまでろくに勉強していないため、入学時の成績は当然ながら最下位。しかし彼はそこで猛勉強し、2年後にはトップクラスの成績になりました。
白洲を最も変えたのは、彼と同じく車を愛した同級生の、7代目ストラフォード伯爵・ロビン・ビングです。ロビンはおとなしい性格で、白洲が喧嘩に遭ってしまった彼を助けたことから2人の出会いは始まったと言われています。またロビンは、伯爵なだけあり紳士的で礼儀に溢れた人物でした。2人は大学時代に愛車のブガッティやベントレーにのって大陸横断旅行を楽しむ仲になりました。
白洲が78歳となった時、2人は最後の対面を果たしています。それから4年後にロビンが先に亡くなるのですが、白洲はその連絡を息子から聞いた際、まだ言い終わらないうちに「ロビンか?……ありがとう。」と全てを察し、それだけ言って言葉を止めたといいます。
3:留学で英語に磨きをかけ、ついには英語が日本語よりもうまくなる
白洲次郎といえばネイティブレベルの英語を巧みに操ることで知られていますが、彼はそもそも日本にいた頃から家庭教師についてネイティブの英語を習っていました。そのため、イギリスに渡った時点で英語自体にはさほど問題はなかったのです。
そこに加えて計9年にも及ぶ留学生活を通し、英語に磨きをかけていきました。親友のロビンに多くの上流階級の貴賓を紹介してもらっていたこともあってか、彼の英語はイギリス英語であり、オックスブリッジ独特の訛りがありました。
また彼は子供を叱るときに、英語を使ってまくしたてていたというエピソードがあります。それだけ英語が身に染みていたのでしょう。
4:日本実業家との対立の原因は、外資の日本進出を助けようとしたから?
白洲はやがて吉田茂の側近として、商工省の下局である貿易庁の長官になります。そこでは汚職の根絶などを目的に風紀一新を図った政策で腕をふるい、「白洲三百人力」と称されるまでになりました。間もなく貿易庁は通商産業省と形を変え、これが現在の経済産業省となるのです。
彼は外資企業の進出に非常に積極的で、留学時代の人脈をフル活用してイギリス企業の日本進出を助けました。これが日本経済を支える第1歩になると考えていたからです。しかし、国内企業の進出を阻むかのような彼の行動は、他の官僚や実業家たちにとっては信じられないことでした。
当時白洲は、連合国軍によって返却された日本製鐵広畑製鉄所の処置をめぐって、永野重雄と意見を争っていました。白洲は外貨獲得のためにあっさりイギリス企業に売ってしまえと言いますが、永野は復興に必須の企業をどうして外資に渡せるものかと頑迷に否定。最後は白洲が泣いて謝り買収は取りやめになったとされています。
また日本航空設立の際には、アメリカ系の航空企業を建てようとして当時の社長らと対立していますが、最終的には白洲が折れて企業設立を諦め、無事日本航空が運航を許可されました。
当時の日本企業は、公職追放などの影響を受けて著しく危うい状態にあり、白洲にとっては外資を呼ぼうと画策することで日系企業を大きく刺激しなくては、日本が世界の中で取り残されると感じていたのかもしれません。
5:サンフランシスコ平和条約でのやり取りの真偽
白洲は、日本は敗戦国ではあるがアメリカの奴隷になったわけではないという主義のもと、決して米軍に媚びを売ることはありませんでした。「従順ならざる唯一の日本人」という彼の評はこの態度からきています。
1951年、白洲は吉田茂のサンフランシスコ平和条約調停に同行します。この時に吉田が書いた演説文が全て英語で、さらにGHQに対する美辞麗句が連ねられていることを見て激怒します。吉田らは慌てて演説分を全て日本語に翻訳しなおし、当日は長さ30cmにも及ぶ巻物を持参して日本語で演説文を読み上げました。
しかし、実は白洲が激怒する以前に、演説文は英語と日本語の2種類用意されていて、吉田が前もって白洲らに相談した結果、日本語を採用したという説もあります。いずれにせよサンフランシスコの地では長い原稿が台にあがり堂々と日本語が読まれ、「吉田のトイレットペーパー」と呼ばれるようになりました。そこに白洲がどれだけの貢献をしたのかはわかりませんが、これによってアメリカと日本は対等な立場に立つことが世界中に認められたのです。
6:東北電力の初代会長、そして超大手企業の役員・顧問を歴任した
東北電力の初代会長は、白洲次郎です。彼はすでに官僚時代から公営企業の民営化を進めており、企業の競争を促していました。会長となったのはサンフランシスコ平和条約の直前からですが、東北電力の要となる只見川の水利権を獲得するなどして、東北電力が9大電力会社の一角として大きく繁栄する基礎を築きました。
他にも大沢商会、マルハニチロ、ウォーバーグ証券、日本テレビといった超大手企業の会長や顧問を歴任し、日本企業の発展に貢献していきます。白洲は決して自分で企業を立ち上げることはありませんでしたが、交渉力に優れており、表に出ずに交渉を進めるような人物であったのでしょう。
物語序盤にあるこんな描写に白洲の人柄がよく表れています。
- 著者
- 青柳 恵介
- 出版日
- 2000-07-28
「主人が、朝早くから家のまわりの草むしりに精を出している。(中略)(こうして見るとタヌキが百姓に化けてるみたいだな、いやキツネか・・・・)」
- 著者
- 北 康利
- 出版日
- 2005-07-22
一方、日本男児の鏡とももてはやされ、礼賛される白洲次郎ですが、本当に彼を参考にして生きるべきなのでしょうか。
- 著者
- ["白洲 正子", "辻井 喬", "宮沢 喜一", "青柳 恵介", "朝吹 登水子", "中村 政則", "三宅 一生"]
- 出版日
白洲に関する写真が多く収められています。社会生活では見た目や服装は非常に重要ですね。それは政治の世界ならなおさらです。なぜなら、見た目や服装によって相手に与える印象がガラッと異なってくるからです。この書では、彼が政治の舞台でいかに見た目や服装にこだわっていたか、意識していたかを知る手がかりにもなるでしょう。
- 著者
- 北 康利
- 出版日
- 2012-02-07
強気を挫き、弱気を助ける。白洲次郎の性格を表す言葉としてこれほど該当するものもないでしょう。
- 著者
- 白洲 次郎
- 出版日
- 2006-05-30
あまりにも実直でストレートだからこそ疑問が湧く。それが白洲次郎の魅力の一つでしょう。しかしそれでも彼は真っすぐに生き抜きました。
「彼のようになりたい」と思うのも、「彼のようでは生き抜けない」と思うのも自由です。一方で歴史は彼を評価したのです。政治面から、そして経済面から白洲次郎という一人の男をつぶさに見ていく。ぜひ一冊手に取って、彼の生き様を感じ取ってみて下さい。