戦後初めての日本人ノーベル賞を受賞した湯川秀樹。混乱と動乱の時期に物理学で栄誉を獲得した彼は、どのように日本を見、そして人間としてどのように人生を全うしたのか。彼の著書を中心にその生き様を探っていきます。

1:代々続く学者の家系の生まれ
初名を小川秀樹といい、後に医者である湯川玄洋の娘のスミと結婚し婿養子となって「湯川秀樹」と名乗りました。
小川家は代々学者の家系であり、湯川も幼少期から学問に深く親しみました。彼の兄弟も現代では学会では著名とされる人物ばかりです。長兄・小川芳樹は父の後を継いで冶金学・地質学者となり、次兄・貝塚茂樹は東洋史学者となりました。
四男・小川環樹は中国文学者として『論語』『史記』『孟子』等の思想史や出土資料に着目した研究法を確立させ、漢和辞典の監修にも携わっています。
それぞれが各分野で権威を言われる立場に立つ人物で、湯川も現代にいたるまで物理学を牽引する立場となるのです。
2:実は学者への道を閉ざされかけていた
天才と称される湯川秀樹ですが、幼少期は他の兄弟と比べて出来が悪いと言われていました。その理由は、彼はあまりしゃべるのが得意ではなく、何か面倒なことがあったら京都弁で「言わん」と言って逃げていたためです。そのせいで、「イワン」というロシア語のあだ名をつけられていました。
ひ弱な性格でもあったことから、柔道部の先輩からはよくいじめられていたそうです。こうしたトロいと言われてしまうような性格であったことから、父である小川琢治は何を考えているのか分からないといって、卒業したら大学ではなく専門学校に行かせようと考えていたこともあるのだとか。
しかし、湯川は旧制中一の時点で3年の数学の授業をおとなしく聞いているほど勉強が好きな学生でした。このように、元から能力が高く学究肌だったのです。彼の父がもし社交性の低さに早々にさじを投げていれば、天才物理学者は生まれていなかったのかもしれません。
3:伝説の教授の教えと友人と切磋琢磨した大学時代
小川家は兄弟ともども京都帝国大学に進学しそれぞれの道を進みました。湯川が進んだのはやはり物理学でした。彼の同級生には同じくノーベル物理学賞をとることとなる親友でライバルの朝永振一郎がいました。2人は京帝大時代、日本の数学界隈では伝説といわれている岡潔教授の講義を聴講していました。
湯川は高校時代の経験から自分は絶対数学者にはならないと決めていましたが、彼にとっても岡潔の授業は大変すばらしく新鮮な空気の漂うものであったといいます。
彼らはのちにそれぞれが大学に残って研究を続けましたが、朝永はあっさりと進路を決めて順調に進んでいるのに対し、自分はいつまでたってもうだつが上がらないと嘆いていたそうです。
4:中間子論を提唱し、アインシュタインやオッペンハイマーと交流を持つ
湯川は中間子論を発表し、それが後に証明されてノーベル物理学賞を受賞しました。こうして彼はアメリカに渡ることとなり、コロンビア大学客員教授となりました。これはオッペンハイマーの誘いに応じていたわけなのですが、そこですぐにあのアインシュタインが湯川の研究室に訪ねてきます。
アインシュタインは湯川にとっては憧れの人でした。しかし彼は部屋に入るやいなや湯川の手を握り「原爆で何の罪もない人を傷つけてしまった……すまない」と何度も言い肩を震わせて泣いていたそうです。
アインシュタインが唱えた相対性理論は、当時各国で注目されていた原爆の基礎となっていました。20世紀最高の頭脳と言われていたアインシュタインですが、彼自身にとって彼の業績は決して誇れるものではなかったのです。
これは湯川にとって、1人の人間として科学とどのように向き合っていくのかという大きな転機となりました。
5:物理学だけでなく短歌、漢学もたしなんだ
湯川の祖父、小川駒橘は漢学に精通していました。そのため、祖父の教えをうけた湯川の兄弟は東洋史や中国文学を牽引する立場となっています。湯川も幼少期は漢学の素養を身につけさせられていました5、6歳の時には祖父によって漢学の書籍を読まされていたそうです。
そのおかげもあり、湯川は物理学だけでなく短歌をたしなんでいます。1950年の天皇主催の宮中歌会始で「春浅み藪かげの道おほかたは すきとほりつつ消えのこる雪」と詠っています。平和への祈りも込めて、広島の平和公園には「まがつびよふたたびここにくるなかれ 平和をいのる人のみぞここは」という短歌が刻まれています。
彼は理論物理学という抽象的な学問にて成功を収めましたが、その基礎となったのは漢学の思想哲学史的な考え方だったのかもしれません。
6:彼の名前が単位の名前になりかけた
我々が普段使う長さの単位はどこからどこまでが常用されているでしょうか?日常で生活する上では、長い方はキロまで、短い方はミリまで知っていれば十分でしょう。もっと微細なものでもマイクロまでいけばもうだいたいの人工物はすべてカバー可能のはずです。しかしそのさらに、ナノ、ピコと続き、次にフェムトメートルが入ります。
このフェムトメートル、実は湯川秀樹の功績を元にしてユカワと名付けようという動きがありました。この単位は要するに原子核などに使うことから、この功績は当時エンリコ・フェルミと湯川に帰するものと考え「フェルミ」「ユカワ」という呼称を用いられていたのです。
しかし現在ではこれはすでに過去の話であり、フェムトメートルという呼称は物理学会でも完全に固定されたものとなっています。
7:因果律の破れをも提起した
湯川の学術的な功績は中間子だけではありません。実はタイムマシンなど時間移動にもかかわる因果律の破れについても提起していたのです。
これも非常に難しい話なのですが、簡単に言うと、我々が現在生活している世界やそこにある物質というのは量子というものが突然変異を起こして発生したもので、そこには意識という過去から未来へという一定方向にしか時間が進まない因果律が成立しないというのです。
そしてこれを応用すると、因果律を超越した存在である人間らは時間空間を超えることも可能である、つまり時間旅行も必ず達成できるだろうというのが因果律の破れになります。湯川が提起したのはあくまでも理論上の話で、しかも現在に至るまで証明はされていません。
しかしあのスティーブン・ホーキンス博士もこれと同じようなことを述べているように、未だに多くの科学者が我々人類が未知の世界に到達できる可能性を追い続けています。
学問や教授という言葉を聞くと非常に硬いイメージを思い起こしてしまいがちですが、彼のこの『目に見えないもの』を読んでいると、明らかに柔らかい物に包まれる安心した気持ちにもなってくるのです。それは彼の持つ人間性にも関係しているのでしょうか。
- 著者
- 湯川 秀樹
- 出版日
- 1976-12-08
「単芸型の人というのは、一つのことしかできないけれども、その一つが偉大な仕事になっているという場合がありますね。」(『天才の世界』より引用)
- 著者
- 湯川 秀樹
- 出版日
お子さんを持つ方には良くお分かりかと思いますが、子供はこの「なぜ?」に対して率直に疑問をぶつけてきます。例えば、「なぜ地球は青いの?」とか、「なんで太陽は明るいの?」といった素朴な疑問。
- 著者
- 湯川 秀樹
- 出版日
- 2014-03-06
湯川秀樹は、常に自分の事を客観視できたのだそう。物語の途中でエピローグを差し挟むという珍しい執筆方法をとることもある彼ですが、そのエピローグの中であえて一人称を「わたし」では無く、三人称の視点から語った物語が載せられています。この文章構成を見るだけでも彼がどれだけ自分自身を客観視していたのかが分かるのです。
- 著者
- 湯川 秀樹
- 出版日
- 2011-01-25
さて、本書で紹介される彼の読書遍歴ですが、荘子から始まり、源氏物語、ナンセン伝、ロシア小説、果てはギリシャ記まで、中国からヨーロッパまで世界中を巡り巡っています。特に彼の中国古典に対する造詣の深さは頭が下がる思いになるでしょう。
- 著者
- 湯川 秀樹
- 出版日
いかがでしたでしょうか。
湯川秀樹という学者の人となりが少しでも見えてきたのではないでしょうか。世間の学者像からイメージできる学者としては一種異様とも言える湯川。しかし、だからこそ彼は物理学の世界で頂点に君臨する事ができ、また後世から天才とまで呼び名されるほどの人物になったのではないでしょうか。
少しでも湯川に興味を持った方は、他にも良書がたくさんあるので、ぜひ一度お手に取って読んで頂ければと思います。