言論の自由の戦いの結果は?
新聞出版会社に勤める美人記者、南弓子は、「社説」を担当する論説委員です。あるとき弓子が書いた文章が政府の校閲に引っかかり、論説委員を辞めさせられる危機にさらされます。弓子はそれを不当とし、自分の地位を守るため奮闘します。
- 著者
- 丸谷 才一
- 出版日
- 1996-04-10
この作品の魅力のひとつは、バツイチである南弓子の華麗な経歴です。仕事柄政府幹部との堅いつながりがあり、女一人でも協力を仰ぎ、強く生きていく姿がかっこよく輝いて見えます。
文章は歴史的仮名遣いということもあり、最初は読みづらいと感じることでしょう。時代設定も、弓子の話し方もまた、古さを感じるかもしれません。
しかしその中でも、ユーモアあふれる文章が見え隠れしていて、思わずふふ、と笑ってしまうような要素が多く存在します。
例えば、弓子の同僚である「浦野」の存在です。浦野は力のある新聞記者で、弓子もその才能を認めていることが伺えます。しかし浦野は弓子が自分のことを好きだと勘違いをし、弓子に告白しようとして、間違えて娘の千枝に「愛してる」と伝えてしまうのです。このユーモアがあることで、文章の堅さとのバランスが良く、楽しく読み進めることができるでしょう。
源氏物語幻の章、『輝く日の宮』を追う
源氏物語にあったとされる幻の章、「輝く日の宮」が実際にあったと信じる国文学者、杉安佐子が主人公の物語です。
安佐子は論文を学会で発表し、その中から、やはり「輝く日の宮」は存在したのではないだろうか、という論を提示していきます。
- 著者
- 丸谷 才一
- 出版日
- 2006-06-15
前知識がないままこの作品を読んだら、2章でまず驚くことでしょう。
1章は、自分を許嫁と勝手に言い張る左翼の男に、女が会いに行く話です。この人が主人公かな?と勘違いする中、2章では、本当の主人公である杉安佐子が書いた小説であることが明らかにされます。
この作品のいちばんの魅力は、章によって異なる語り口調です。例えば1章の文は体言止めが多く、リズム感よくお話が進みますが、2章では会話文が多く、文学についての考えをぶつけ合う場面となっています。ころころとかわる語りに、翻弄されながらも徐々に引き込まれていくのです。
この作品では、多くの文学作品が出現することも魅力の一つです。泉鏡花、松尾芭蕉、徳田秋声などの有名な文学者の作品を論じながらも「輝く日の宮」の謎に迫っていきます。最後の章で、それらはすべて「輝く日の宮」の存在を定義する伏線であることに後で気づくでしょう。
「輝く日の宮」の内容だけでなく、安佐子は『源氏物語』作者の紫式部についても思いをはせていきます。そして安佐子自身の恋人との関係も、まさしく光源氏と紫の上の関係と同じと言っても過言ではないのです。
現代の安佐子と、紫式部、物語の中の紫の上、という三者が交差する構造は、丸谷才一本人の技術力を見て取れるでしょう。
さらに最後の章では、「輝く日の宮」の再現まで行われています。小説の形を借りて、「輝く日の宮」存在についての論文にもなっているこの作品は、読み応えあること間違いなしです。
昔と現在の文学を知る丸谷才一の文章読本
有名な文豪、谷崎潤一郎や志賀直哉など現代人でも慣れ親しむ作品から、漢文古文という、現代人には少し読むのが難しい文まで例に取り上げながら、「名文とはどのようなものか」を分析していく作品です。
- 著者
- 丸谷 才一
- 出版日
- 1995-11-18
文章読本という名の書籍は、他の文学者も発表しています。それらを取り入れながらも、新しい文章の書き方を提案する今作では、丸谷才一の、くすっと笑ってしまうようなユーモアもふんだんに取り入れられているエッセイです。
文章中には谷崎潤一郎、夏目漱石、志賀直哉と、出てこない文豪たちはいないのではないかというほど多くの作家の名文が登場します。
「ちょっと気取って書け」という章はとても特徴的と感じることでしょう。この章の最後に例示されているのは川端康成の文章に関しての話です。川端は、昔から漢文や古文などの名文に囲まれて生活しており、彼の文はそれらの影響を受けている、という内容です。
つまり、現代の自分たちには、川端より生活環境的には劣ってしまうことを提示しています。だから、「ちょっと気取って書け」という章のタイトルがつけられているのです。
昭和から平成にかけて生きている丸谷才一ですが、漢文、古文や明治の文学の知識が豊富にあります。そのため、それらの知識を駆使して、現代でどのような文を書いたら良いのかを分析し、例として挙げることができます。これはまさに、丸谷しか書けない『文学読本』なのではないでしょうか。
また、文章は内容だけでなく、目で見るものであることにも触れていきます。丸谷は、現代の文は漢字かなのバランス、ローマ字まで入ることを指摘し、より「目と耳と頭に訴える」文にするという考えを示していくのです。それこそ、昔の文豪がなし得なかった、現代に対応した柔軟な文章の書き方の提示だと感じるでしょう。