甲野善紀とは
甲野善紀は、武術の鍛錬を通して身体の動かし方の研究をしている武術研究家。うねらない、ためない、ひねらない、という独自の動作法を開発し、これにより優れた身体能力を発揮する術理を研究しています。
井上雄彦、養老孟司、黒田鉄山といった著名人との著書があり、NHKの「古の武術に学ぶ」というテーマの番組に、講師として出演した事もあります。
洗練とはどういう事か?武術の境地に迫る
武術家と医者の対話を通じて、身体をどのように捉えるかという所から、その根底にある思想まで幅広く論じていくのがこの本『武術と医術 人を活かすメソッド』です。ここでは、武術に宿る精神論から、実際の技術まで幅広く論じていく事で、その道の果てにある境地を探っていきます。
- 著者
- ["甲野 善紀", "小池 弘人"]
- 出版日
- 2013-06-14
まず、注目に値するのが、武術に限らず多くの事に当てはまる精神論について。
例えば、甲野善紀は、食べるという行為ひとつをとってみても、自分の意志がどのように働くかによって、表れる効果は大きく異なってくる、と説明。ここで指摘しているポイントは「食べない」と「食べられない」の違いです。
断食などで、自身が「食べない」状態をつくっている時は、それを続けていけば健康になります。しかし、「食べられない」状態を強いられている場合、その人は反対に衰弱していくことに。
このように、物事をどのように捉えるかによって、健康になったり、衰弱したり、様々な反応が表れる点について、甲野善紀は持論を展開します。
そして、このような考えからは、何事も自分の意志で行う事が大切なのだという事が分かります。何事も、やらされている、と思うより、自分からやっている、と思ったほうが楽しいですよね。つまらない事にも、なにか面白い要素を見つけて楽しむ事が、人生を楽しむコツであるように思われます。甲野善紀の考えからは、そのような物事に対する姿勢を学ぶ事ができるでしょう。
その他には、縮退という言葉が紹介されており、ここもおさえておくべきポイントです。
「「縮退」とはもともと、物理学者の長沼伸一郎先生がご自身の考案された「作用マトリクス」という考え方から導き出された概念で、一部の人やものの間だけをお金やものが循環しつつも、だんだんと狭い場所に集中して速く回っていく様子を示す言葉です。」
(『武術と医術 人を活かすメソッド』から引用)
これを武術に当てはめて考えてみると、武術を極めていく過程がそのまま縮退である点がポイント。初めは、武術の型を学んでいても途中で分からなくなったり、技が上手く決まらなかったり、滞ってしまう事が多くあります。これを縮退で捉えると、初めのうちは、自分の武術に関する技術が収まっていかずに、あちらに行ったりこちらに行ったり、色々な場所に広く拡散していってしまうので、上手く回らない状態です。角がごつごつしている石を思い浮かべてもらえればいいでしょうか。
しかし、修練を積んで武術を極めていくと、技を繰り出すとき、滞りなく素早く行う事ができ、上手く歯車が回っているように振る舞えるようになります。これが、狭い場所に集中して速く回っていく様子を示す縮退であるという事ができるでしょう。
このような考え方は、沢庵和尚が柳生但馬守に送った『不動智神妙録』の考え方と合わせて考える事も出来ます。ここで沢庵和尚は、相手が打ってきた刀に自身の心がとらわれ、どうやって避けるか、受け止めるか、と色々と思案が広がっていく事を、心が止まる、と表現。
普通は、妄念にとらわれた状態は心が激しく動くと表現する所ですが、沢庵和尚はこれを、心の清らかな流れが滞り止まった状態である、と捉えている点がポイントです。
そして、相手の打ってくる太刀にとらわれ妄念することなく、水の流れのように滞りなく素早い態度で相手の太刀をさばく姿勢が大切であると説明します。これは、上記で説明した縮退を言い換えた言葉であると捉える事も出来るのではないでしょうか。
このように、現代の武道と昔の武道の間にある共通する項目に目を向けると、捉え方の違いはあれども、同じような教えがある事に気づきます。そして、この教えを学んでいけば、武術が心身を鍛えていくイメージの全体像が、少しずつ分かってくるのではないでしょうか。そのような点において、本書は大変優れた書籍であるといえるでしょう。
身体の神秘を武術と医学で読み解く
武術と医学に頼りながら、異なる方面から身体の捉え方を論じていくのがこの本『古武術の発見』。本書の中では、武術に宿る方法論、身体の仕組みを論じ、また、オートとマニュアルに喩えて身体を論じていく中で、優れた達人の境地を考察。身体の動作を極めていくと学問になる、という考えなど、優れた卓見がちりばめられた一冊です。
- 著者
- ["養老 孟司", "甲野 善紀"]
- 出版日
本書の考えを簡単に表わした部分を抜き出してみると、それは以下のようになります。
「ものに習熟した人、職人にせよ、ひじょうに優れた腕の人の話を聞いてみると、どうも、自分の手、足、腰が機械の一部のような、一種のオートと言えばオートだと思うんですけれども、そういう感覚が、だんだん生じてこないと、つまりナマの「自分の肉体でやっている」というような感じがあるうちは、それほど能率も上がらないし、動き自体も精度がよくなってこないようです。」
(『古武術の発見』から引用)
これは、身体を上手く使っていると、身体を意識しなくなるほど精神が集中するという事だと思います。身体と精神の関係は、突き詰めると難しい部分がありますが、達人になればなるほど両者が一致して、素晴らしい動きが出来るようになるのでしょう。それは、沢庵和尚に言わせれば、心が止まる事のない状態なのだと言うことができます。
そして、それは身体だけでなく道具を使っている時も起こり、道具が身体の一部になる、と表現されます。
例えば、代表的なのは禅の本である『善慧大士録』に記されている「空手にして鋤頭をとり、歩行して水牛に乗る、人、橋上より過ぐれば、橋は流れて水は流れず」という言葉。人が普通にしているだけでは、手は手でしかなく、歩いていても水牛に乗っている心地がしてくることはありません。むしろ、農作業などをしていても、初めのうちは動作がおぼつかなく、基本的な動作すら危うい場合もあるでしょう。しかし、その道に慣れてくると、手が鋤のように働き、歩いていても水牛に乗っているように思う事があり、そのような時、人は、その道に習熟したと言えるのかもしれません。
この他にも、マニュアルとオートについて論じている部分もおさえておくべきポイント。マニュアルとオートというと、車を思い浮かべる人も多いかとは思いますが、ここでは、何かの作業をマニュアルで行っていると、次第にそれをオートで行う事ができるようになるという現象について言及されています。そして、達人というのは、それをオートで行う事ができる域に達した人を指すのであり、本書では、それを脳の大脳と小脳の働きに照らし合わせて説明。養老孟司は、ここでいうマニュアルは大脳の働きで、オートは小脳の働きであると解説します。
しかし、日本舞踊の先生の脳が、この法則に反している事例などを挙げ、一概にいえない部分がある点も指摘。この点などは、人の脳や身体のもつ不思議さが表れていると言えるでしょう。
マニュアルがオート化するにしても、手が鋤になるような時も、身体と精神が車輪の上下になって上手く働いている時、このような境地に達することが出来るのでしょう。素人目には、なかなか実感が湧きませんが、言われてみるとそのような気がしますよね。
このように、武術の要諦を考えていく事について、養老孟司は、
「身体を突き詰める人には、学問に通じる所がある。」
(『古武術の発見』から引用)
と指摘しています。そして、これを文武両道と捉えていることも、面白いポイント。人は、スポーツをする時も、どうすれば上手くなるか自分なりに研究して覚えていきます。また、勉強に疲れたら運動をするとすっきりして良い気分転換になりますよね。
このように、勉強をしたら身体を動かし、運動で疲れたら勉強をする、というように、両者がバランスよく働くことで、日々の生活に張りが生まれ、良いサイクルが生まれるのではないでしょうか。文武両道という概念は、実は、日常の生活に根ざした優れた教えであると言えるのかもしれません。