かつて学問に顧みられなかった事象を検証する『山の人生』
柳田国男自身、神隠しのようなふるまいをしたことがあるのだそうです。そんな自分の経験もかんがみて、神隠しにあいやすい気質があるのか、どんな状況でこつぜんと人はいなくなるのか、またそれを神隠しと判断する根拠は何なのかという、日本各地の事例を比較検証しています。
天狗、狐、山人がさらったと結論付ける共通性や里の人とはちがう、山の中に存在する「何か」とその土地の信仰生活とのかかわりを探ろうとする内容です。
- 著者
- 柳田 国男
- 出版日
- 2013-01-25
子供がいなくなれば今なら当然、警察へ連絡し近隣の人たちと探しまわるにちがいありません。
しかし昔は、これは神隠しだと判断すれば鉦をたたいて儀式めいたことをしながら歩き回ったのだそうです。そしてまれに戻ってきたりもするのです。
子供に限らず成人さえもふらふらと山へ入っていく。不平があったり厭世の気持ちで家出するのではないのに。そんな事例が遠く離れた土地どうしで共通してあるのはなぜかの検証を試みています。
ほかにもウブメと路傍の神、狼への信仰、山人と天狗について、何百歳も生きている人の伝説の成り立ちなどを掘り下げていけば昔の人の考えや信仰の片鱗が見えるといいます。
山近くに住む人々の宗教生活、風習を説明するためにこの書物を書いたと柳田は述べていますが、ここに書かれた各地の習慣あるいは不思議な事象に対する地元の人なりの解釈のしかたというものが今、どれだけ残っているのだろうかと考えさせられます。
自分の子供の頃を振り返るきっかけに『こども風土記』
子供と母親たちが一緒に読めるものという新聞社の企画で遊びについての話を募集したところ、今の子供よりもかつて子供だった大人からの反響のほうが大きかったと柳田国男は語っています。
故郷を離れたばかりの若者たちが少し前の子供と呼ばれた時代を思い出して自分はこういう遊びをしていたと書き送ってくれることは柳田にとって本来の趣旨とは違う思わぬ副産物だったのです。
たくさん集められた遊びの情報をもとにして、その中から遊びのもともとの意味を探ろうという内容です。
- 著者
- 柳田 国男
- 出版日
- 1976-12-16
この本の内容は1942年のもので、私には聞いたことのない言葉や内容の遊びが多く、とても新鮮に思えます。
わずかに知っている遊びとしては「かごめ、かごめ」がありました。柳田の解釈ではこれは「屈め、屈め」つまり「しゃがめ」ということだろうとのこと。この遊びの本当の目的は輪を作って立ったりしゃがんだりすることだから、歌のほうは面白かったり、ゴロが良かったりしたものに改作されていくのだと言っています。
子供の遊びはもとは大人がまじめに行う何らかの儀式をまねて遊びになったのだろうということで、もとの忘れたほうの儀式やしきたりの推測をとても興味深く読むことができます。
この本を読んでいるうちに、読者の土地の遊びもあるかもしれません。もしかしたら、地元のエピソードのはずなのに、もはや聞いたこともないというものもあるかもしれません。
それでこそ柳田国男が文字として、これらの遊びを残した意味があるのです。
私たちがやっていた遊びも、活字上の文献になっていきつつあるのではないでしょうか。
今では語られなくなった伝説を知りたいならこれ『日本の伝説』
日本各地に伝わる伝説を多数取り上げ、もともとその土地にある木や石、泉にまつわる伝説がどう変容したのか、そしてその変わり方には共通性のあるのだということを説明しています。
子供に語り掛ける口調でわかりやすく読みやすく書かれています。
- 著者
- 柳田 國男
- 出版日
- 1977-01-25
子供に向けて読み聞かせをすることがよく奨励されていますが、この柳田国男の著作は子供が話を聞きおぼえることの意味と後世への功績を語っています。
昔から子供を大切にする国風というものが日本にあって、それが道祖神とか外来の地蔵とかによく残っているのだといいます。
各地に弘法大師や念仏、また歴史上の人物がまつわる伝説がたくさんありますが、それはもともとあった木や石に対する習慣やしきたりの本来の意味が忘れ去られ、それらの習慣を行う理由付けとして後から伝説が付託されたというのがおおかたのパターンだということです。
例えば「だいし」という呼び名はもとは神を祀っていた名残の言葉が各地の田舎にあり、物の分かった知識人が「だいし」なら弘法大師に違いないというようになって結果、弘法大師があちこちで奇跡を起こすことになったのだという理論などは興味深く面白いです。