マルクス研究者から共産主義活動家へ、河上肇の生涯
河上肇は1879年、山口県に生まれました。東京帝大(いまの東大)に入学しエリートへの道を順調に進みますが、東京の人々の貧富の差にショックを受けます。そして経済学を研究することで人々の幸福に貢献できないかと考えるようになるのです。
1908年には、29歳で京都帝大(いまの京大)の講師となります。1915年にはヨーロッパに留学に出て、帰国後に『貧乏物語』を書き、同書は大いに売れます。1920年には京都帝大の経済学部長に就任。この頃からマルクス主義に傾倒するようになり、マルクスの『資本論』を翻訳しながらその知識を学生に伝えてゆき、大きな影響を与えました。
1928年に京都帝大を辞職すると、河上はしだいに政治活動にのめり込むようになり、1932年には日本共産党に入党。翌年検挙され牢に入ります。そこで党活動をやめる宣言をする、いわゆる転向を行い衝撃を与えました。出獄後はひっそりと暮らし、1946年、66歳で亡くなりました。死の翌年に『自叙伝』が出版されています。
貧乏とは何かをわかりやすく説いたベストセラー
1冊目は、河上肇の名を学界以外にも広く知らしめた『貧乏物語』です。タイトルから小説と思う方がいるかもしれませんが、これは経済学の基本を平易に書いた解説本です。
- 著者
- 河上 肇
- 出版日
- 1965-10-16
河上は、人が健全に生きるためには食事をちゃんと摂らなくてはいけない、という基本から話し始めます。十分な食べ物や日用の必需品を買うのに必要な費用は計算できる、と河上は語り、その費用より収入が上回っているかどうかで、貧しいか金持ちかは判定できる、と語っていくのです。この貧富の境界線を河上は貧乏線と呼びます。こんなふうに、当時のヨーロッパ経済学の基本を、誰にでもわかるようにやさしく語ってゆきながら、貧富の差とは何かを解き明かす本なのです。
しかし貧富の差を解消する方法にまで河上は筆を進めていきますが、その結論は「富める者が贅沢をやめるのが解決策」というものでした。それはおかしい、と、経済学者たちから批判の声が集まります。現代の常識から言っても、富める者がお金を使わないのは少しも解決策にはなりません。河上もこの結論の間違いに気づいていて、正しい解決策を求めて苦悩します。その結果、マルクス経済学に本格的に取り組むようになってゆくのでした。のちに、マルクス主義の考え方を説く続編『第二貧乏物語』を書いています。
激しい利他主義に生きた生涯を語る自伝
2冊めは『自叙伝』。つまり河上肇の自伝です。獄中で書き始められ、転向して出獄後の晩年は、ほとんどこれを書いて過ごしました。死後出版され、長大な本であるにも関わらずよく売れました。
『自叙伝』が当時ひろく読まれた理由には、まず、出版された1947年には社会主義が支持を集めていて、河上が苦難の先駆者として尊敬されていたことがあります。もうひとつの理由はテキストが非常に読みやすく、かつ格調と情熱にみちた名文であったことでした。文章のお手本として読まれた面もあると思われます。
- 著者
- 河上 肇
- 出版日
河上は幼年時代の記憶から書き起こし、自分の過去を綿密に、忠実に語っていきます。その生涯の根底にあったのは、聖書の有名な「人がもし汝の右の頬を打てば、左の頬も向けよ」という言葉だったといいます。絶対的な非利己主義、自分を捨てて他人のために生きるという考え方に、少年時代から河上は全身で共感していました。それが後付けの情熱ではなく、魂の底から来るたえまない欲求だったことが本書を読んでいると感じられます。
他人の幸福に尽くすために経済学を選んだ河上は、やがて経済学そのものに疑問を抱くようになります。それは人の利己的な欲望を基本にした学問で、彼が目指す絶対的利己主義とは相反するものではないかと思うようになるのです。大いに迷った河上は一時期ある宗教に属しますが、やがて極端に自分を追い詰めることで、ある種の神秘体験をしたといいます。
「かくて私は、絶対的な非利己主義を奉じながら、心中一抹のやましさを感ずることなしに、この身体に飲食衣服を供し、睡眠休養を許し、なお学問をもさせ智識をも累積させていくことが出来るようになった。ただ問題は、絶えず私心の掃滅に努め、この五尺の身体をして真に天下の公器たるに値せしめることに存する」(『自叙伝』より引用)
河上は、経済学者である以前に生まれながらの求道者でした。その過剰なまでにストイックな生き方には、息を詰めて見守るしかないような迫力があります。