「教育」について学ぶ
- 著者
- 苅谷 剛彦
- 出版日
本書はオックスフォード大学教授で教育社会学の著者が、中学生向け新聞に連載していたコラムを書籍化したものです。1998年に単行本で刊行され、2005年に文庫化するにあたってデータの更新と、内容の追加がされています。
「なぜ勉強するの?」「校則はなぜあるの?」といった、生徒が持ちそうな疑問に対して著者なりの意見を示しつつ、読者に「自分の答え」を導き出すことを促します。また、学校における「生徒の世界」「先生の世界」「社会とのつながり」などが平易に説明されています。
その一方で専門家ならではの記述もあります。たとえば日本が経済成長していた時代には、「ナショナル・カリキュラム」と呼ばれる国家統一型の教育が日本の産業の強さの源泉ではないかと海外から評価され、それを模倣しようとした国々が多くあったといいます。しかし、日本は逆に「個性」を重視する教育へと舵を切り始めたのはご承知の通りです。
この背景には、大量生産によるコスト競争産業に適合した画一的な教育では、じきに賃金の安い新興国には対抗できなくなるという危機感があったとしています。この悪い予想は的中し、その一方で対抗策として行った「ゆとり教育」においては学力低下などが指摘され、見直しが行われることになりました。とはいえ、以上のような事情を鑑みれば、安易にゆとり教育や、その教育を受けた世代を揶揄することはできないでしょう。
本書は中学生向けの新聞のコラムが元になっていることは既に述べましたが、上記のような教育に関わる制度論やデータも多く含まれますので、教員を目指す方や保護者にもおすすめです。
「友だち」について学ぶ
- 著者
- 土井 隆義
- 出版日
さて、既に述べたような事情により導入された「個性を伸ばす教育」が与えた影響は生徒の学力低下だけではありませんでした。社会学者の宮台真司氏が「島宇宙」と名付けた、「それぞれ断絶した小さなグループ」が教室に生まれ、そして本書のタイトルである「友だち地獄」という奇妙な言葉がフィットするような社会が教室に発生することになったのです。
どういうことでしょうか。
学力を物差しとした画一的な教育は、評価が容易です。また、教師が前に立って教鞭を取り、生徒全員が同じように前を向いて授業を受けるという形式は、「教室」という空間を「生徒全体」で共有しやすいと言えるでしょう。
逆に「個性を伸ばす教育」は、教育の成果や達成度を曖昧にします。また教師は専門科目については生徒を圧倒することができても、「個性」においてはそうはいきません。つまり教師の教室における支配力(パワー)は弱まり、生徒もそれまでのように「全員が同じように前を向く」のではなく、個性に沿ってそれぞれがバラバラの方向を向くことになります。その結果、気の合う少人数のグループが、それぞれ断絶して、教室に乱立することとなったのです。
これは、生徒個人にとっては、どこかのグループに所属することでしか居場所を確保できないことを意味します。そのグループから外される恐怖を常に抱えながら、「空気を読みながらのサバイバル」を続け、高度な、しかし特殊なコミュニケーション能力を身に付けることでしか居場所を確保できません。
著者はこの状態を「優しい関係」と名付けています。それは言葉とは裏腹な息苦い関係です。本書では生徒がもっとも不安になるのは入浴中であることを紹介しています。なぜならメールなどのチェックができないからです。「即レス」と呼ばれる「すぐに返信をする」という行為は、グループ内のつながりを維持するために必要なものであり、友達のために「即レス」できない状況ほど不安なものはなく、本来リラックスできるはずの入浴時間が、ストレスを生んでいるのです。
本書では他にも若者のメンタリティの数十年間の変化の検証や、「携帯電話」をメディア論で有名なマーシャル・マクルーハンのいう「拡張した身体」として捉えることで身体性の問題として考察するなど、タイトル以上に幅広い内容となっています。
では次に、こうした状況を生む原因となった「個性」について考えてみましょう。
「個性」について学ぶ
- 著者
- 博報堂ブランドデザイン 東京大学教養学部
- 出版日
- 2014-12-10
本書は「個性」に対する意見について、東京大学教養学部に在籍する認知神経科学、文献学、生態学、哲学、物理学、統計学、政治学、天文学、言語学という9つの学問の研究者へのインタビューを収録したものです。
例えば統計学では「個性とはコストである」と述べられています。あるデータを画一的に集計し、グラフにしたり傾向を分析することは統計学の得意分野です。しかしそれは「画一的な集計では捉えることができない部分」を無視することでもあります。その「無視された部分」が「個性」だと考えれば、統計学が個性を捉えるには多大な手間、つまりコストが必要であることがわかります。
本書では様々な視点から、個性は自然と発揮されるものであるという意見が多く出されています。そうであるならば、「個性を伸ばす」のではなく、個性を受け入れる環境のためにコストをかけ、必要な資源を十分に準備すること、そういった教育現場をつくることが「ゆとり教育」で本当に必要だったことなのかもしれません。