吉田茂ほどワンマンという言葉が似合う男はいないでしょう。しかし、それは従来から使われていたワンマンの意味とは違い、当時の日本政府内において役立つ男は吉田茂ひとりだけ、という意味でした。

1:総理大臣に5回就任した
吉田は内閣総理大臣に5回も指名されています。ちなみに、それ以前の最多記録は初代大統領・伊藤博文の4回で、約45年ぶりの更新となりました。
2:3つの条件付きで総理大臣になった
彼は総理大臣に指名される前に、ある条件を提示していたそうです。それは「金作りはやらない」「閣僚の選考には口出し無用」「辞めたいときに辞める」という3つでした。この自分勝手な条件は、当時GHQによって公職追放されていた鳩山一郎を怒らせましたが、GHQの動向を気にするあまり首を横に振れず、結果的に吉田内閣は発足します。
3:鳩山一郎を翻弄した「解散」 とは
上述の鳩山一郎の公職追放が解けると鳩山は首相を代われと迫ります。吉田は上述の条件を提示する際「戻ってきたらいつでも譲る」とも言ったからです。しかし彼はまだやり残したことがあるといって「抜き打ち解散」と呼ばれる強攻策を使います。
解散後、吉田には「日本独立に一役買った」との世論からの支持がり、また鳩山は突然の解散のせいで選挙の準備などができず、 結果吉田が当選し、第4次吉田内閣が発足することになりました。
4:調印の責任を1人で背負った
サンフランシスコ講和会議の際、吉田をはじめとする全権委員団が署名に赴きます。しかし調印後、吉田は全権委員の池田勇人(後の総理大臣)に「次の調印には立ち会うな」と言いました。 彼の真意は、日米安全保障条約の署名を一人で行い、責任を一人で負うことにありました。
吉田以外の全権委員を安保反対派から守るための厳しい一言だったのです。
1:マッカーサーとは友達のような関係だった
吉田とマッカーサー(GHQ長官)は個人的な交友関係があったとされます。吉田が「450万トンの食糧を輸入しないと日本は餓死する」とマッカーサーに訴えますが、日本に輸入された食料は70万トンほどでした。しかし餓死者など出なかったため、日本の統計のいい加減さに難癖を付けられます。
しかし吉田は「日本の統計が正確なら無謀な戦争なんかしなかったし、戦ったとしても日本が勝っていたはずですよ」と返し、マッカーサーを大笑いさせたそうです。
2:痔だったために自分の結婚式を欠席した
吉田は一人目の妻との結婚の際、痔を患っていたそうです。そのことを伝えられた妻の父は吉田にすぐに治すよう伝えます。 すると彼は結婚式を欠席し、本人の代わりに新郎の椅子に座らせられたのは家宝の太刀だったそうです。
3:客人を盛大にもてなした
沖縄返還を実現した佐藤栄作が総理大臣だった頃、吉田の家を訪ねたことがありました。なんとその時吉田は、羽織に袴を着て出迎えると言う大層な歓迎振りだったそうです。 さらに必ず佐藤を上座に座らせ、彼を苗字ではなく「総理」と呼びました。後に吉田が具合を悪くしたとき、お見舞いに簡単に行きづらくなったといいます。
吉田茂を通して、敗戦時の混乱の最中でのGHQとのやり取り、そして日本が取るべき進路について語られています。更に本書では岸信夫、池田勇人をあげており、対比しながら宰相としての吉田茂が評価されています。
- 著者
- 高坂 正尭
- 出版日
吉田茂は、戦後の政治体制と安全保障を築いた人物ともいえます。
- 著者
- 井上 寿一
- 出版日
- 2009-06-18
戦前、吉田茂は一貫して日独伊の三国同盟に反対していました。それは彼が外務省で身につけた国際感覚であったろうし、歴史観であったろうと思われます。
- 著者
- 保阪 正康
- 出版日
- 2003-05-23
彼は昭和の歴史の中で色褪せることなく、軍部の台頭の中で怯むこともなく、反戦和平派を貫いた人です。実の父、養父、そして岳父の三人の父を持つ、一人の宰相でした。GHQからの厳しい要求にも怯むことなく、日本国憲法、経済発展、そして昭和天皇の廃止に反対の異を唱え、昭和政治の礎を築いた様子が描かれています。
- 著者
- 原 彬久
- 出版日
- 2005-10-20
1853年のペリー来航からわずか7年後、日本は、日米通称条約批准のため、わずか250トンの船で太平洋を渡りました。それは、日本の近代史の幕開けであり、日本という小さな島国が世界に向かって船出する第一歩でもありました。幕府は開国すると決定し、攘夷を捨てたようにも見えましたが、ここから日本人の気概と野心を見る思いでもありました。
- 著者
- 吉田 茂
- 出版日