楊貴妃のせいだけじゃない 栄華からの転落
唐王朝の中で最も栄華を極めたのは玄宗皇帝(在位712年~756年)の時代だといわれます。唐の第二代皇帝太宗(李世民)の次の高宗以後数代の間、皇后たちが政権を掌握することが重なり宮廷は混乱していました。その混乱の中で即位したのが玄宗です。
彼は政治を刷新するために官制や地方制度の改革に乗り出します。建国当初からの兵制も崩れていたので領域外に圧力を加えるための辺境警備軍として節度使(せつどし)の数を増やしました。連年の豊作もあり国外からの攻撃もない社会的に安定した「開元(かいげん)の治」と呼ばれる治世を実現します。
しかし楊貴妃(ようきひ)を宮中に迎え入れたころからその堅実な仕事ぶりが一変してしまうのです。
- 著者
- 村山 吉広
- 出版日
本来楊貴妃は玄宗の息子の妃として召し出されたはずでしたが玄宗に見初められて後宮(こうきゅう 皇帝の日常生活の空間)に入ることになりました。
楊貴妃が皇帝の寵愛を受けるとその恩恵にあずかれるのが彼女に連なる楊氏一族です。兄や姉、親戚たちが重職につけられ官吏は楊氏の者たちに追従するようになります。楊氏一族は朝廷内にも外にも一大勢力としての存在を築くのです。
玄宗のもう一人のお気に入りに安禄山(あんろくざん)というものがいました。彼は辺境警備軍を率いる節度使です。朝廷内で出世するために宮中の者に金品を配り、信用を得てついに楊貴妃の養子にまでなります。安禄山は軍事力を持っていますので謀反を計画しているのではないかと噂になり、玄宗にもたびたび忠告がありました。しかし玄宗は忠告を受け入れなかったのです。
楊貴妃の親戚の楊国忠(ようこくちゅう)が自らの地位を脅かすものとして安禄山の宮廷工作を妨害しにかかり対立します。ついに安禄山は朋友の史思明(ししめい)とともに反乱を起こします。(755年安史の乱)
玄宗と楊氏一族が都長安を脱出しなければならないほどの勢いで安禄山の軍は侵攻し、栄華を誇った長安は蹂躙されてしまいました。この乱は楊国忠と安禄山の対立が元凶ということで楊氏一族は誅滅され、楊貴妃も玄宗の側近に殺されます。
安禄山が身内に殺されたことを契機に反乱軍も長安から退いていき、都には避難先で即位した粛宗が戻ってくることとなり事態は一応の収束を見たのでした。巨大な唐帝国を維持する制度にほころびが生じたことで起こった事件でした。
宮廷内の勢力争いや節度使の力が大きくなる原因など、この本は唐王朝の栄華の絶頂と転落のさまを教えてくれます。
文化のゆりかご長安 この世の春をおう歌する都
唐の都長安は隋が建国したときに造営した都を受け継ぎました。隆盛期の玄宗の時代に人口100万人に達したとされているその都はどんな様子だったのでしょうか。仏教寺院には仏塔がそびえ、イラン系の人たちが信仰したと思われるゾロアスター教の会堂が並び、四方から様々な民族が訪れ商人として、留学生としてその街を歩いていたのです。
この本は唐の時代の人たちが作った詩の中から長安の賑わいやいろどり、唐の長い歴史においての盛衰の様子を抽出し、読者に華やかなりし大帝国の都を語ってくれます。
- 著者
- 陳 舜臣
- 出版日
三月の上巳(じょうし)、五月の端午、九月の重陽(ちょうよう)など都長安では年中行事が絶え間なく行われていました。特に春は官吏登用試験の科挙(かきょ)の発表シーズンで、合格者には皇帝が宴の席を設けたといいます。
科挙は隋にはじめたものを唐でも引き続き行ないました。それまでは貴族が政治を担い、官僚になるのも貴族の推薦で行われていましたが、それに加えて客観的に点数が付けられる試験制度を導入したのです。唐の中期には貴族出身の官僚と、科挙出身の官僚が対立するという構図ができてしまう原因にもなりました。
多民族を許容する唐は外国人を登用することもありました。日本人で代表的なのは阿倍仲麻呂、唐での名前を朝衡(ちょうこう あるいは晁衡)という人がいます。玄宗皇帝の時代に長安で役人として働いていたといいます。
左右対称に整然と区画された街、貴族や庶民の住み分け、官庁街や市場、日夜灯火が絶えない繁華街、市場での処刑について。この本は則天武后の政権簒奪、クーデターや反乱の舞台ともなった長安の様子だけでなく領土の拡大による西域経営、その地域の支配などを知ることもできます。
小国はつらいよ 大国との付き合い方
古代日本では唐に使いを送る「遣唐使」によってさまざまな知識を得て国づくりの参考にし、また最澄や空海に代表されるように仏教を学び教義を持ち帰る僧侶も大勢いました。
しかし遣唐使の本来の目的は唐の皇帝に貢物をして外交関係を結ぶことにあったのです。唐についてから都長安に入るまで、そして皇帝に謁見するまでのあらゆる儀式は唐にとってどんな意味があるのでしょうか。
この本は遣唐使たちが見て経験したことを手掛かりに当時の唐の皇帝権力や外国との関係性を見出し、周辺諸国と唐との政治的関係を考察する内容です。
- 著者
- 古瀬 奈津子
- 出版日
遣唐使は唐にとっては貢物を献上して皇帝に拝謁しに来る朝貢(ちょうこう)使節団でした。日本では天皇の使者として遣唐使を送りましたが他の国では国王や王子が朝貢することもあったのです。あくまで唐の皇帝が上の立場であることを確認するための使節なのです。
外国使節へのもてなしや贈り物は唐を中心にした国際関係の秩序を維持するためのものでした。例えば最も重要な儀式として正月元日に行われる「朝賀の儀礼」というものがあります。これは国内の官僚や地方官そして諸外国の使者たちを都の皇帝の前に集め、拝賀させる年頭の儀式で、皇帝が中心となって人と領土を支配しているという権威を示すために行われました。
そのほか国事行事を全国規模で行うことのできる皇帝権力の強さとその浸透、皇帝からの命令の伝達の仕方など遣唐使の記録をもとに唐の制度や儀式の意義を考察しています。唐と日本の朝廷や儀式の比較なども興味深い一冊です。