秦の始皇帝の権力、その盛衰の一部始終がここに。
群雄割拠の時代を終わらせた秦の始皇帝。彼はいったい何者なのでしょうか。秦ではなく趙(ちょう)で生まれた政(せい)という人間がどのように天下を統一できたのでしょう。
政が13歳で秦王として即位したときに彼を支えたのは父の代からの権力者、呂不韋(りょふい)でした。政は成長するにつれて王として実権を取り戻します。自らの意思で国づくりに挑む秦王の政でしたが広大な版図を手に入れ皇帝になったのも束の間、統一事業がまだ完成に至らないまま、旅の途上で死んでしまうのです。
このように政が秦王から皇帝へと変身をとげる人間となった変遷とその周りの人々の思惑を検証した内容です。
- 著者
- 鶴間 和幸
- 出版日
- 2015-09-19
春秋戦国時代、お互いの国の信頼の証として王の子や親族を他国に預ける人質の習慣がありました。始皇帝の父親である子楚(しそ)も趙(ちょう)に送られた秦の人質でした。子楚は人質として趙で暮らしながら結婚し、子供の政(せい)を得たのです。そんな人質生活の子楚が秦王になるように手を貸したのが商人の呂不韋でした。
呂不韋の計らいによって子楚は国に帰ることができました。しかし子楚は王に即位して3年で死んでしまい、13歳の政に玉座がまわってくるのです。秦王となった政は成長するに従い、自らの意思で政治を行うために父の代からの権力者で政治の実権を握る呂不韋を排除し、李斯(りし)趙高(ちょうこう)という側近を得て天下統一の道を進むことになります。
土木工事で民をかりだして道を敷き、運河を作った理由は何なのか。万里の長城がなぜ必要だったのか。書物を焼き、儒者を生き埋めにしたといわれる「焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)」の真実は何だったのか。統一後の政策の意図と後世への影響を検証し、始皇帝の死後の側近の陰謀を探り秦帝国の盛衰を教えてくれる本です。
未完の帝国・秦が崩壊していき、再び戦乱の世へ
始皇帝によって中国史上初めて天下を統一した秦でしたが、その期間はわずが15年に過ぎませんでした。強国として他の群雄を支配した秦がなぜそんな短期間で滅ぶことになったのでしょう。叛乱を起こし、後に秦に代わって天下を争うのは旧楚国にゆかりのある人たちでした。
従来の文献による解釈に加えて近年次々に発掘されている簡牘(かんとく 文字の書かれた木や竹)を参考に、統一された当初の社会や地域の違いに着目し、叛乱の始まりから秦の滅亡そして次の王朝、漢の興りまでを検証した本です。
- 著者
- 藤田 勝久
- 出版日
- 2006-09-09
戦国時代の列強各国から勝ち残り支配体制を整えた秦。中国を統一した帝国となったはずでしたが、それからの衰退はあっという間でした。
今までにない広範囲の領土を得た秦帝国はそれまでの秦国での法律や制度を支配した地域にも広げようとしました。しかし土木工事や兵役による徴用など、なじめない秦の制度に国民の不満はつのっていくのです。
また、始皇帝は中国を統一後、自らが支配者であることを示すために地方をまわる「巡行」を行っていましたが、その途上で死んでしまうのです。始皇帝という強烈な影響力を持つ人物が亡くなったことと上記の国民の不満から秦帝国は急激な瓦解の道を進むことになります。
その後、陰謀によって二世皇帝の地位を得た胡亥(こがい)、その教育係の趙高(ちょうこう)、始皇帝を支えてきた李斯(りし)が後を引き継ぎますが、もはや各地で起こる叛乱の勢いをとどめることができませんでした。
権力を欲する趙高によって二世皇帝も李斯も死に追いやられますが、次の皇帝になるべく立てられた子嬰(しえい)に趙高もまた殺されるのです。この時には各地で「王」を名乗るものが次々と現れ、「皇帝」という地位は意味をなさなくなっていました。「秦王」として即位した子嬰は後に漢帝国を築くことになる劉邦(りゅうほう)に降伏し、秦は滅亡することになります。
秦はどういう体制を敷こうとしたのか。戦国時代には他国だった支配された側の人たちは秦をどう見ていたのか。考古資料や従来の文献から秦の滅びの原因を探る一冊です。
栄華の名残り、地下世界からの声
始皇帝といえば写実的で精巧な兵士の像を思い出されるのではないでしょうか。1974年に発見されて以来始皇帝陵の周辺から俑(よう)という実物大の人や馬の焼き物が多数発掘されました。このおびただしい数の人形は「兵馬俑(へいばよう)」と呼ばれ、秦の時代の貴重な考古資料として研究が続けられています。
本来は色彩豊かだった俑や青銅製の実物の武器。文字による記録では語れないリアルさは実際に時を超えてきた過去からの贈り物です。
この本に書かれている、現地をまわって見た実感や兵馬俑を間近で観察した様子から著者の感動が伝わってきます。
- 著者
- 鶴間 和幸
- 出版日
始皇帝はまだ秦王だったときから自らの陵墓を作り始めていました。しかしその完成を見ずに死んでしまったため、彼が入るべき墓は二世皇帝が建造を引き継ぎ完成させなければなりませんでした。
二世皇帝には側近に操られた暗愚な皇帝としてのイメージが伝えられていますが、それは秦が滅んだあとの時代に書かれた書物に由来するものだということを考慮しなければなりません。まだ統一事業の最中だった広大な領土を父の死によって引き継いだ二世皇帝。始皇帝の葬儀を執り行い、大規模な宮殿と同時に墓を完成させるという事業を継続したのです。
暗愚であったから国を滅ぼしたというストーリーは王朝の変わり目によく書かれるパターンです。始皇帝の側近だった李斯や趙高に比べて文字記録の少ない二世皇帝の何らかの意思を考古資料から読み取ろうとする部分が興味深い著作です。