最上義光は山形藩の初代藩主ですが、なかなか現代までその業績や人となりは伝わっていません。テレビなどの影響で狡猾な人物だと思っている人もいらっしゃるかもしれません。今回はそんな義光について、実像が分かる本をご紹介します。

1:幼少期の名前は「白寿丸」だった
戦国時代の元服は15歳で成人で、彼はこの時まで「白寿丸」という名前で過ごしていました。ちなみに義光の「義」とは、時の将軍・足利義輝の「義」の字から与えられたものです。
2: 最上義光の兜は、織田信長から譲られたものだった
義光が愛用した兜は「三十八間金覆輪筋兜(さんじゅうはちけんきんぷくりんすじかぶと)」というもので、織田信長から授かったものです。慶長出羽合戦(1600年)の際、直江兼続軍により鉄砲で頭を狙われましたが、この兜のおかげで命が助かりました。
3: 怪力の持ち主だった
最上義光は家臣と力比べをした際、1人で約50貫目(約190kg)の石を持ち上げたそうです。この石は「義光公の力石」と呼ばれ、現在も山形市内に残っています。
4:常に最前線で戦った
当主でありながら数々の戦で戦陣を切って戦ったという記録が残されています。彼が敵陣に単騎突撃をかけ、見事首を取って自陣に返ると、参謀は涙ながらに「御大将がするべき振る舞いではない」と指摘したそうです。
5:「鮭様」というあだ名で親しまれた
義光は「鮭様」などと呼ばれてしまうほど鮭が大好きでした。大宝寺氏との戦いに勝って庄内地方を手に入れた時も、鮭がたくさん獲れるとのことで大変喜んだそうです。贈り物やお土産としてもいろんな相手に鮭を送っています。実際、鮭は戦国時代では高級魚でした。
6:無駄な血を流さないために、悪役を買って出た
戦国時代では、騙す・裏切るなどの行為は特に珍しいことではありませんでした。またトップの人間だけを手にかける事で、他に無駄な血が流れることを避ける武将もいたといいます。義光もその武将の1人でした。
彼は敵対関係にあった谷地城主の白鳥十郎に、自分が危篤状態だという嘘の知らせを流し、引き連れて来た家臣たちは庭で待たせ、1人で部屋にきた十郎を殺しています。一見卑怯なエピソードですが、この事件で亡くなったのは十郎のみで、その後十郎の家臣たちは義光の下でそれなりの高位につけらました。
義光について悪い印象しかなかった人も、素晴らしい人物だと信じていた人も、本書からは義光の実像が見えてくることでしょう。義光が亡くなってから割とすぐに改易されてしまったので、最上家の史料は少なくなっています。そんな中から細かく史料を検討し、義光の領国支配の様子や合戦について述べてあることから、義光の生涯が手に取るように分かるのです。
- 著者
- 伊藤 清郎
- 出版日
- 2016-03-11
最上氏の歴史から義光の生涯に渡って詳しく論述されている中で、義光は名門意識が高く、羽州探題にこだわっていたことが読み取れます。また文化人としても活動も多く書かれており、義光を多面的に知ることができるでしょう。
- 著者
- 松尾 剛次
- 出版日
義光がどのように領土を広げ、どんな人物だったのかということが鮮明に読み取れます。軍記物なので誇張された部分もあるかもしれませんが、本作品で描かれるのは、智仁勇の三徳を兼ね備えており、近隣のものは皆従ったという義光。英雄視されていた様子が見えてきて、こんな義光もいたのだと面白く読むことができます。
- 著者
- 出版日
穏やかで優しい性格ながら、伊達や上杉と戦い、戦国時代を生き抜き領土を拡大していった義光はやはり凄いとしか言いようがありません。戦国大名まで上り詰め、善政を敷いて領民に慕われるということは、なかなかできることではないでしょう。
- 著者
- 天野 純希
- 出版日
- 2015-10-09
いかがでしたか。ほとんど知られていない最上義光について知り、魅力を発見することができたでしょうか。東北の戦国時代についても詳しくなれますので、ぜひ楽しんで読んでみてくださいね。