真言宗を開いた人物で、弘法大師としても有名です。しかし真言密教とはどんな宗教なのか、また実際はどんな人物なのかについては、はっきりと知らない人の方が多いかもしれません。人物を知れるおすすめ本を集めましたので、ぜひ読んでみてください。

1:能書家である
彼は真言宗の開祖である僧ですが、仏教だけでなく芸術にも長けていました。平安時代に活躍した空海・嵯峨天皇・橘逸勢の3人は「三筆」と呼ばれ、書道の達人として名を残しており、特に空海は三筆の領袖で功績第一とされ、多くの書道家の模範となりました。彼が最澄に書いた書状「風信帖」は特に有名な作品です。
2:天台宗の最澄と仲が悪かった
彼と最澄はともに平安時代初期を代表する僧ですが、最澄は彼と共に唐に留学し、やがて天台宗の開祖となりました。2人は初めこそ頻繁に手紙のやり取りをするなどとても仲が良かったですが、やがて真言宗と天台宗の教義の違いから意見を戦わせ、ついには絶交してしまいます。
この原因は最澄が再三彼に経典を貸してくれるようお願いしたにも関わらず、彼が拒否したこと、最澄の弟子が彼に鞍替えして、天台宗の奥義を彼に教えてしまったことだと言われていますが、はてさて真実はいかがなものでしょうか?
3:讃岐うどんを唐から伝えた
彼は唐への留学の際に仏教だけでなく様々なことを学んできました。その中には彼の故郷・香川県の特産品、讃岐うどんも彼が伝えた料理だといわれています。
元々彼が持ち帰った「唐菓子」と呼ばれる団子汁の団子の中に餡が入ったものでしたが、これを「混沌(こんとん)」と呼びます。それを室町時代頃になって小麦粉をこねて薄くのばし、包丁で細く切って仕上げた麺料理は煮て熱いうちに食べるから「温沌(おんとん)」、そしてのちにうどんと呼ばれるようになったといわれています。
4:満濃池の改修を行った
香川県仲多度郡まんのう町にある満濃池は日本最大の農業用ため池ですが、西暦818年、讃岐国の満濃池で大規模な氾濫が起きました。それ以前から満濃池は度々氾濫しては周囲の民を困らせていましたが、当時の讃岐国の国司は、地元のヒーローである空海を土地の皆が慕っていることを聞いて、彼を京都から呼び寄せ満濃池の改修を命じます。
彼は唐で密教以外にも土木建築について学んでおり、満濃池を現在のダムにも通じるアーチ状に開削したのと水かさが増しすぎるのを防ぐために余分な水を吐き出す調整溝を掘って常に適切な水かさが溜まるようにしました。こうして、僅か4ヶ月で改修を行った彼は地元の人から、さらに慕われることとなりました。
5:文を書くのが異常に早かった
彼は密教を学ぶ過程で多くのレベルの高い中国の文章を読んできました。幼少期から古典を読破してきましたが、長じては後進が教えを乞うほどになっていました。後に彼は詩作創作のバイブルである『文鏡秘府論』を記し、それは広西まで重宝されました。
それに弟子が書いた『性霊集』によると、彼は詩・上表文・碑銘文・願文とあらゆる文章を書き上げることができ、しかもその場で即興で書いてもまるで遜色ない出来だというほどの筆持ちだったのです。
6:「弘法筆を選ばす」と「弘法筆を選ぶ」
「弘法筆を選ばず」というと、書の達人であり、弘法大師という別名をもつ空海はどんな筆を使っても素晴らしい文章が書けるという意味、転じて技量がある程度まで達していれば周囲の環境等に左右されずいい結果を残せるという意味です。
しかし、実際の彼は『性霊集』においていい文章が書けなかったときに、「よい筆を選ばなかったからうまく書けなかった。筆はしっかり選ぶべきだよ。」と言っています。これを「弘法筆を選ぶ」ともいい、どちらかというと後者の方が彼の本当の意見のように思えるでしょう。
7:実は温泉を掘り当てていない
彼の伝説で有名なのは、全国各地を行脚した際に温泉を掘り当てて人々に施しを与えたというものです。いわゆる開湯伝説というものですが、これはほとんどが高名な彼の名にあやかって作られたに過ぎない伝説です。では、なぜこんな伝説がまことしやかに広まったのかというと、温泉は現代でもそうですが健康を意識したものが多いはずです。
当時の僧は単に教えを説くばかりではなく、医学にも精通し実際に建設的に人々に薬を処方するという仕事もありました。彼は唐へ留学した際に薬学も学んでおり、実際に処方したこともあるのでしょう。温泉への健康志向は空海らの仏教僧から由来しているものです。
8:ネギ畑に隠れて蛇から逃げた
真言宗の総本山である京都・東寺付近では九条ネギと呼ばれるネギが古くから栽培されています。伝承によると、かつて彼は道中蛇に追われた時に九条ネギの畑に入って蛇から逃れることができました。そのため、東寺の五重塔にはネギの花のつぼみがつけられたといわれています。
東寺付近の住民の中では、今でも東寺の縁日である21日には不幸を避けるためにネギ畑に入らないようにという風習が残っています。
9:法要のために国を動かした
空海の入滅後、50年おきに御遠忌法要が行われるようになりました。しかし、明治時代以降廃仏毀釈の影響で彼の人気は著しく落ちます。そのため、高野山側は昭和9年(1934年)の1100年御遠忌では大阪朝日新聞や東京日日新聞などの新聞社の協力も得て、彼が日本文化の形成に貢献した偉大な人物であると喧伝されました。
当時は第二次世界大戦の影響で国民の一致団結のために国も空海をプロバガンダとすることを容認したため、こうした行いが広まったのです。
戦後の昭和59年(1984年)の御遠忌までには高野山道路が整備されました。この時行われた1150年御遠忌は過去最高の参拝客数だったといわれ、同時位北尾氏欣也氏主演で映画が製作されています。
10:台湾でも祀られている
彼は正真正銘の日本人ですが、日本占領時代の台湾でも祀られていました。現在、台北市の台北天后宮には空海の廟があります。元々台北天后宮は日本時代に弘法寺という真言宗のお寺がありましたが、日本撤退後に住職も揃っていなくなってしまいました。
天后宮は元々別の場所にある新興宮という媽祖廟でしたが、日本占領時代に壊されてしまいます。終戦後に元の新興宮信徒が弘法寺に空海像を移して新しく建て直し、現在の台北天后宮となりました。他にも像があったり毎年法要の際に高野山と連絡を取っていたりと台湾の弘法寺は日本との交流も盛んです。
著者苫米地英人は脳科学者ですが、仏教の伝統派で得度もしているそうです。そんな著者が語る真言密教はどんなものでしょうか。日本の仏教がなかなか世界に広まらず認められないのはなぜなのか、密教はキリスト教と同じくらい最強である、といったことが論理的に説明されていて納得してしまいます。密教というと一般人にはなかなかどんなものなのかが分かりにくいですが、この本を読めば少しは理解することができるでしょう。
- 著者
- 苫米地 英人
- 出版日
- 2014-02-13
第1章で書かれる生涯では、若い頃は実は苦悩しながら進んでいったことが分かります。天才で家族に期待されていましたが、大学の教えには満足行かず、中退し僧の道へ足を踏み入れました。恐らく初めは迷いながらだったのでしょう。しかし著者が言うように「引きずられない人」である空海は、まっすぐに自分の信じる道を突き進んでいきます。そんな様子に感銘を受けること間違いありません。
- 著者
- 加藤 精一
- 出版日
- 2012-04-25
本作での彼は、神でも仏でもない普通の少し嫌味で執念深く、強かな人物として描かれますので、身近に感じられることでしょう。特に最澄との確執は読みごたえがあり、空海が嫌な人物に見えることもあります。しかし自分の思想に自信を持ち揺るがない部分には、尊敬の念を覚えるはずです。
- 著者
- 司馬 遼太郎
- 出版日
- 1994-03-10
彼の原点である三教指帰を、とても平易に読めるということで貴重な本だと言えます。儒教・道教の思想についても、しっかりと理解できますし、それを上回るものだとして書かれる仏教に関しても気付きを与えられることでしょう。24歳の時どのような考えであったかということが、よく分かります。
- 著者
- 出版日
- 2007-09-22
この作品は、高野山開創1200年記念で文庫化されました。そんな昔の人物なのに、本書を読んでいるうちに目の前にいるかのように感じられます。天才も幼い頃は悩むことが多かったんだなということがよく分かります。性に関する描写も多いので、好みは分かれるかもしれません。
- 著者
- ジョージ秋山
- 出版日
- 2015-01-15
やはり凄かった……、という感想になるかもしれませんね。こんな天才が存在したということ自体奇跡のようです。まだまだ謎の多い人物ですが、さまざまな本から空海と真言密教の本質を見つめてみてください。