人間本来の「知」は残り物チャーハンである?『野生の思考』
パンジー(三色スミレ)の絵が表紙の可憐な一冊が、1962年に発表されたレヴィ・ストロースの代表作『野生の思考』です。表紙のパンジーはフランス語の「思考(pensée)」と「パンジー(pensée)」の綴りが同じというところから来ています。『野生の思考』は多くの国で翻訳、出版されていますが、どの国の本の表紙にもパンジーが描かれています。
- 著者
- クロード・レヴィ=ストロース
- 出版日
- 1976-03-30
レヴィ・ストロースは『野生の思考』の中で、人間の〈知〉についての考察を行っています。中でも自身が調査を行ったブラジルの先住民たちをはじめとした未開民族の持つ〈知〉や〈思考の方法〉に注目しました。
先に見たように、言語学者のヤコブソンから構造主義の考え方を学んだレヴィ・ストロースは、ブラジルで出会った未開民族たちの暮らしぶりや儀礼、彼らの中で語り継がれている伝説や神話などが、決して野蛮かつ未熟なものではなく、むしろ極めて明晰な論理的思考に基づいているものであることに気づくのです。レヴィ・ストロースはこの未開民族の持つ知や思考を〈野生の思考〉と名付けました。
『野生の思考』が執筆された頃の西洋近代社会においては、科学に基づく合理的思考こそが正しく、先進的な物の考え方であるという考えが支配的であり、未開民族の習俗や彼らの持つ神話的世界観などは、非合理的で非論理的なもので、未開社会は西洋近代社会に比べて未熟で劣っていると考えられていました。レヴィ・ストロースは、そのような考えを「科学至上主義」に陥った西洋近代社会の一方的な偏見でしかない、と厳しく批判するのです。
では、レヴィ・ストロースは未開民族がもつ〈野生の思考〉のどのようなところに構造や論理的な思考を見出したのでしょうか。ここはレヴィ・ストロース自身が提出した〈ブリコラージュ〉という概念を考えてみると理解が易しいでしょう。
〈ブリコラージュ〉は、例えるならば冷蔵庫の残りで料理を作るようなものです。「コラージュ」という語が含まれていることからも伺い知れるように、〈ブリコラージュ〉とはあり合わせの素材を組み合わせて一つの新しいものを作り出すことを言います。
つまり、わざわざ材料を買って料理を作るのではなく、冷蔵庫の残り物を組み合わせてチャーハンを作るのが〈ブリコラージュ〉というわけですね。未開民族の暮らしには、近代社会にあるようなあるものを作り出すためだけの部品というものは存在しません。彼らは手近に落ちている木の枝で火を起こし、寝床を作ります。もし木の枝がなければ別のもので同じことをするでしょう。神話なども、彼らの生活の身近にいる動物や経験した気候などを組み合わせて世界の成り立ちを説明したものだと言えます。
このように目の前のあるモノに対して別のモノとの関係性を考え(雨が降ると洪水が起こる)、さらにその関係性と類似する別の関係性を連想して(雨が降ると蛇が出る)、再構成し(雨が降って蛇が出ると洪水が起きる)、それらの事象に異なる意味を与えることで(蛇は水の神である)、新しい「構造」(=神話)が生まれます。これこそが〈野生の思考〉です。
〈野生の思考〉の特徴は具体的な記号を用いることだとレヴィ・ストロースは言います。部族間の人間関係から神の存在、世界の成り立ちに至るまで〈野生の思考〉においては自然界にある動物や植物などを当てはめて記号とするのです。
例えば私たちは親族関係を「叔父・叔母・甥・姪」などのような抽象的な概念によって区別しますが、未開社会においては具体的な動物の関係と親族の関係を当てはめて(例えば狩りをする生き物であるライオンを叔父、狩られるシマウマを姪という風に)区別します。(この時の動物をトーテムと言います)
西洋近代社会が抽象的な「概念」を用いて世界を構造化するのに対し、未開社会は具体的な「記号」を用いるという相違こそあるものの、理論と仮説によって新しい構造を生み出す点については両者は同一でありそこに優劣はない、というのがレヴィ・ストロースの主張になります。
むしろレヴィ・ストロースは、理性と感性を切り離さない豊かな思考の可能性を〈野生の思考〉に見出したのです。その眼差しこそ、レヴィ・ストロースが20世紀最大の人類学者と呼ばれる所以なのでしょう。
人間社会の本質は贈与である『火あぶりにされたサンタクロース』
最後にレヴィ・ストロースの著作の中でも少し変わった一冊『火あぶりにされたサンタクロース』をご紹介します。この本の元になった論文は1952年にサルトルの依頼を受けて「レ・タン・モデルヌ」という雑誌に掲載されました。
この著作の中でレヴィ・ストロースは1951年にディジョンという街で起きた、キリスト原理主義的な聖職者や信者たちの手によって子供たちの眼の前でサンタクロース(の像)が火あぶりの刑で処刑されてしまうというショッキングな事件を取り上げ、ユニークなクリスマス論を展開しています。
- 著者
- クロード・レヴィ=ストロース
- 出版日
- 2016-11-25
クリスマスというお祭りは今でこそキリスト教のお祭りとして知られていますが、元々は古代ローマやケルトの異教の祭りがベースとなっています。
12月(冬至)の頃は、太陽の力が最も弱まるため、古代ローマやケルトの「異教の民」たちにとって最も危険な季節でありました。昼が短く夜が長くなり昼と夜のバランスが大きく崩れるこの季節には、生者と死者の世界のバランスも崩れ、生者の世界に死者たちが侵入してくると信じられたのです。
そのため、冬至の頃に行われる冬至祭りには死者に扮した者たちが登場し、人々はその死者の霊たちに贈り物を与えてご機嫌をとることで、彼らのもたらす災いから逃れ世界のバランスを取り戻そうとします。この時の死者役には、まだ生者の世界にやってきて日の浅い(=死者の世界に近い)子どもが担いました。祭りの夜、子どもたちは死者に扮して家々を回り、供物を集めて歩きます。
このようにして、死者の霊や異形の者を表す存在に贈り物をし、親切にすると災いから逃れられるという信仰が生まれたのです。この異教の祭りをキリスト教は巧みにイエス・キリストの生誕祭であるクリスマスに取り込みました。ですので、クリスマスの前には十二夜の祭りとして、死者の霊(に扮した子供達)が夜の街を跋扈する祭りが行われていたのです。
ところが19世紀ごろになると、クリスマスの前段であるこの十二夜の祭りが公序良俗に反するとして問題視されるようになります。子供達が夜の街を練り歩くことが問題とされたのですね。そこで、新たに十二夜の祭りの夜に子どもたちが家の中でおとなしく「いい子」にしていると、「鞭打ち爺さん」がどこからともなく現れ子どもを脅しながらも贈り物を与えて去っていくという風に祭りが変化していきました。(鞭打ち爺さんが、子どもを脅すという悪霊色を残していたのは十二夜の名残ですね)
さらに鞭打ちじいさんも時代が下るにつれ悪霊色が薄まり、キリスト教の伝統において子供の守護聖人である「聖ニコラウス」に取って代わられるようになります。このようにして私たちが現在よく知っている優しい白ひげのおじいさんである、セント・ニコラウス、すなわちサンタクロースが誕生したのです。
冬至の祭りからも伺えるように、かつての古代社会では冬はギフトを互いに贈り合う「贈与の季節」であると考えられてきました。ですから冬至の祭りでは死者に扮した子供達に贈り物を贈り、クリスマスではサンタクロースがプレゼントを配ってくれるのも、古代社会の「冬は贈与の季節」という〈野生の思考〉の名残だと考えられるのです。
この「贈与の季節」という野生の思考は近代の資本主義ととても相性の良いものでした。なぜなら盛大な贈り物を贈与し合うという行為は、巨大な経済的な利潤を生み出すことになるからです(現在のクリスマス商戦を思い浮かべれば一目瞭然ですね)
近代において、クリスマスは巨大な商戦を繰り広げる祭りへと変貌しました。現在私たちがよく知る赤い服に白いひげの恰幅の良い老人というサンタクロース像を作り出したのが、近代資本主義の象徴であるコカ・コーラ社であることは非常に示唆的です。
最初に紹介したサンタクロースが火あぶりになった事件が起こった当時、フランスでもアメリカ式のいわゆるサンタクロースが一躍人気者となり、サンタクロースとともに近代的な消費文化が流れ込んできました。このような風潮に危機感を抱いたキリスト原理主義的な聖職者や信者たちは、サンタクロースが引き連れてきた消費文化(=贈与の季節)と共ににかつての異教が復活してきたと考え、サンタクロースを〈異教徒〉として処刑しようとしたのです。
レヴィ・ストロースはこの一連の過程から、消費文化におけるクリスマスという〈近代〉においても「贈与の季節」や「死者との(供物)の交換」といった〈野生の思考〉がその底流に今も脈々と息づいていることを鋭く指摘しました。〈野生の思考〉は現在でも私たちの生活の中に確かに根付いているものであり、決して過去の遺物でも遅れた不完全な思考でもないことが分かります。
未開社会の習俗や神話を構造的に分析することで、西洋近代社会の思考体系とは異なる〈野生の思考〉を見出すことに成功したレヴィ・ストロース。
彼の最大の功績は、その〈野生の思考〉が決して未熟なものでも劣ったものでもなく、むしろ近代化された社会においても〈野生の思考〉は確かに根ざしていることを再発見したことにあるのではないでしょうか。
そんなレヴィ・ストロースの発見した〈野生の思考〉は、社会構造が複雑化したり、科学技術が急速に発展してより科学偏重の思考が支配的になっている現代こそ顧みられるべきものなのかもしれません。