幸せの在りかに気づく事ができる禅の入門書
仏教や禅の考えは、心を安らかにする事に主眼の置かれたものが多くあります。『ほっとする禅語70』では、禅の言葉を引用しつつ、日々生活していく上で大切な考え方を分かりやすく説いていきます。禅問答などのような難しい考えがない点もポイント。禅や仏教に興味があり簡単な本を読んでみたい、という人にうってつけの一冊です。
- 著者
- 石飛 博光
- 出版日
引用される言葉は、どれも含蓄のあるものばかりなのですが、ここでは、その中でも特にめぼしいものを例に挙げてご紹介します。
明珠在掌(みょうじゅたなごころにあり)
人は、自分が持っている幸せに気づかないものだ、という意味の言葉。人は、外に外に幸せを求めていくものですが、その幸せは案外自分の中に最初からあるものだ、という考えです。何かを獲得するために頑張るという事も大切ですが、なにをやっても満たされないような時は、日々の生活を思い返してみましょう。
三食美味しいご飯を食べられて、着るものに不自由しないし、家には冷暖房が備わっている。時々、美味しいケーキを買ってきて贅沢する事もある。一見すると当たり前の事ですが、世界には、衣食住に不自由している人が大勢います。このように考えた時、案外自分の生活は幸せなのではないだろうか、と思う事が出来たら大丈夫。きっと安らかな心になれるはずです。
仏教には、極楽は遙か遠くにあるのではなく、すぐそこにあるものという考えがあります。その事に気づけたら、心の中に言いようのない安らぎを感じる事ができるかもしれません。
簡単な言葉で禅の教えを解説しているので初心者にもおすすめです。
生を苦しみとしたブッダの教えを簡単解説
仏教の開祖であるブッダは、生きることは苦しみであると説きました。しかし、私達にしてみたら、生きることは苦しみである、と言われてもいまいち心に響きません。現代的な考えからしたら、なんて否定的な言葉だろう、と思いますよね。
しかし、私達は、どうしようもなく苦しくなり、ふさぎ込んでしまうことがあります。病気になり、周りの人が苦しみを理解してくれないような時、絶望することもあるでしょう。しかし、そのような時、生きることは苦しみであるというブッダの言葉は、その人を肯定してくれます。そのように考えると、苦しい状況にある人にこそ、ブッダの言葉は心に響くのではないでしょうか。
- 著者
- 佐々木 閑
- 出版日
- 2012-06-22
そして、ブッダの教えは、苦しみとどのように向き合っていくか、という具合に続きます。生きることは苦しみだ、という一切皆苦。全てのものは常に変化していく、という諸行無常。自分というものの実体は存在しない、という諸法無我。時間の流れを超えた平安の境地、涅槃寂静。
ブッダの教えは、このように苦しみを認める所から始まり、絶対的な安らぎを見いだす所までを説きます。このように考えてみると、ブッダの教えは、苦しんでいる人を救う事に主眼が置かれていることが分かります。
また、ブッダの教えは死生観にも表れていて、本書ではそれも紹介されています。人が死ぬ時、その人の存在はこの世から消えてなくなりますが、その人が周りの人と築いた絆は、周りの人達の中に残ります。そのようにして、人は死んだ後も誰かの中で生き続けるのだ、という考えが本書の中で示されているのです。これは、ブッダの教えの中から導かれる考え方で、多くの人に感銘と安らぎを与えるいい考えですね。
このように考えた時、ブッダの生きることは苦しみだ、という言葉も、人を安らぎに導くための端緒であることが分かります。本書では、そのような考え方を基礎にしてブッダの考えを論じる、ブッダの思想入門として最適な一冊です。
知識がなくてもOK。仏教を深く学びたい人に
仏教の般若心経の教えを現代語で解説した本です。考え方自体は少し難しい部分もありますが、これ一冊で仏教的な考え方の概要を掴むことができるので入門書に最適。仏教について詳しくは知らないけれど、どのような考えが繰り広げられているのか知りたい、または、仏教の難しい部分まで全体像を見通したい人におすすめできる一冊です。
- 著者
- 玄侑 宗久
- 出版日
本書の中では、般若心経について読み解いていく他にも、様々な概念の中に般若心経の教えを探っていき、老子、荘子だけでなく、ハイゼンベルクの不確定性定理、ボーア、フェヒナーなどの考えにある仏教との関連性を指摘。現代的な他分野の概念の中に仏教的な教えの片鱗を見いだしました。
また、仏教というと、日常生活からは離れた存在であると思われがちですが、この本の中では、私達と密接に関わりのある事柄についても仏教の考えを展開している点に注目。例えば、死についても次のように述べています。
「死にたいと思ったら、水の中に飛び込んでみればいい。死にたいと思っていた自分に関係なく、身体は助かろうとしてもがくでしょう。死にたいなどと思っていたのは脳細胞の一部だけで、身体全体は生きたいと思っていたことが分かるはずです。」
(『現代語訳 般若心経』から引用)
このように、死にたいと思う気持ちも、脳の中の一部が考えているだけのことであり、身体全体は生きたいと思っているのです。そのように考えた時、必死になってとらわれていた死ぬという考えの小ささ、死ぬ事の意味のなさに気づくのではないでしょうか。私という自我意識も、身体全体で考えれば頭の中の小さな一部であり、それにとらわれて思い悩む必要がない事に思い至ります。
私達大人は、物を判別していくことで自分を表し、それこそが私だと信じています。しかし、仏教では、そういった概念を戯論と呼び、このような考えを排除する方向へと考える事も。そうして肥大していった概念を縮小し霧消させていく考えが、仏教の中には存在します。
私達は現代社会に生きていますから、私心や概念を全く無くすことは出来ません。しかし、同じ私心が多くの苦悩を生み出してきたことも確かです。筆者は、私心というものをそのように捉えました。こうして考えると、時には日常生活から離れた仏教の教えに身を投じ、落ち着いた心境に至ることも必要なのではないか、と思い至ります。
考え方は少し難しいですが、仏教に関する知識が無くても読めるだけでなく、仏教の呪文の効用、空などの考え方の概要を学ぶ事もでき、仏教の入門書としてだけでなく、面白い考えを学ぶ上でも最適な一冊です。