長州藩の吉田松陰の思想は、幕末の多くの志士に影響を与えました。若くして亡くなった松陰の生きざまについて知り、さらにそこから明治維新についても考えられるような本を集めましたので、ぜひ読んでみてください。

1.生涯独身で恋愛経験はゼロ?
明治時代の雑誌『日本及日本人』のなかで、松陰の恋愛事情について妹の千代が記しています。それによれば、松陰は勉強漬けの生活で、色恋沙汰にはほとんど縁がなかったそうです。とはいえ、妹が知らないところで恋愛をしていた可能性は十分考えられ、 松陰が野山獄に収監されていた時に知り合った高須久子とは恋仲だったのではないかと言われています。
2.松陰は大福が好き
彼が江戸遊学中に記していた家計簿『費用録』のなかで、遊学中に使ったお金を記録していました。食費に関しては事細かに書いてあり、味噌や梅などを購入したという記録が残っています。勉強熱心だった彼は食事にお金を使うことは稀で、基本的に質素な生活をしていたといいます。そんな中で、頻繁に出てくるのが「大福」という文字。 月に6回購入することもあったそうです。
3.自分のことを「狂愚」と表現していた
「狂愚」の辞書的な意味は、「常軌を逸していて愚かなこと」です。 その意図を松陰は、狂は常に進取に鋭く、愚は常に避趨に疎しと表現しています。 つまり「狂」は何かに取り組み何かを掴むときに迷いなく行動でき、「愚」は逃げるということに対して疎くなる、ということです。この言葉から彼がいかに行動を起こということを大事にしていたかがわかります。
4.東北に学びに行くために脱藩
彼は東北へ遊学する計画を立てましたが長州藩から通行手形をなかなか受け取れず、 友人と交わした約束の日取りを優先して脱藩までしてしまいました。 脱藩の罪は重く、江戸に帰ると罪に問われ、士籍剥奪・世禄没収という処罰を受けました。
5.松下村塾で教えていたのは兵学だけではなかった
松下村塾では、儒学者の山鹿素行が記した兵学書『武教全書』を教科書として使用していました。ただし、講義は兵学にとどまらず、地理・歴史・経済・倫理・芸術など幅広い科目にわたっ ています。また単に書物による学問をするだけでなく、草むしりや炊飯の仕方を教えるなど、 日常生活に必要な知識も教えていたようです。
6.辞世の句は「親思う 心にまさる親心 けふのおとずれ 何ときくらん」
松陰は辞世の句として故郷の両親に宛てた歌を詠みました。子どもが親を思うよりも、親が子どもを思う気持ちの方が強いだろう。今日の処刑の知らせをどのような気持ちで聞くのだろう、という親を想った歌です。
7.弟子たちのために遺書を書いていた
1859年、安政の大獄で処刑される前。松陰は獄中で門下生のために遺書を記しました。この遺書は『留魂録』と呼ばれ、松陰が処刑された後も塾生の間で繰り返し読まれました。この遺書こそが、松下村塾出身志士の行動力の源泉となったと言われています。
8.墓は東京世田谷にある
松陰は長州・萩出身ですので、山口県に墓地があると思っている方も多いかと思います。萩には松下村塾や墓地など松陰ゆかりの史跡が残っていますが、実際の墓があるのは東京です。安政の大獄から4年後、門下生である高杉晋作・伊藤博文などの門下生が尽力したことから、 世田谷若林に改葬されることになりました。それが松陰神社となっています。
9.”松陰”の由来は「寛政の三奇人」高山彦九郎
松陰の本名は吉田寅次郎ですが、本人は松陰と名乗っていました。その”松陰”という号の由来は定かではありませんが、一番有力な説として、江戸時代の思想家である高山彦九郎のおくりな「松陰以白居士」から取っているのではないか、というものがあります。高山彦九郎は、林子平・蒲生君平と合わせて「寛政の三奇人(優れた人)」として知らられ、会沢正志斎の『高山彦九郎伝』を読んで感銘を受けたと言います。
10.彼の短刀がアメリカで発見された
彼の妹寿が、実業家であった新井領一郎に送ったとされる短刀が発見されました。カリフォルニア州バークレーで暮らしている新井領一郎の子孫が保有していたそうです。 短刀の長さは42センチで、室町時代の槍を短刀に作り直したものと見られています。
松陰というと狂気に溢れ、攘夷の思想に凝り固まった若者を思い浮かべるのではないでしょうか。しかし本書で描かれる松陰は、明るく快活とした青年です。友人との約束のために脱藩したり、ふらふらと思いの向くまま旅したりと、直情型で子どものような心も忘れない人物とも言えます。
- 著者
- 司馬 遼太郎
- 出版日
- 2003-03-10
歴史小説を得意とする著者特有の文体は、松陰を生き生きと蘇らせています。感動を与えてくれる場面も多くあり、特に最後松陰が江戸へ搬送される場面での家族との別れのシーンはドラマチックです。また恋愛には疎かったと言われている松陰ですが、本書で見ることができるのは淡い恋心。九州遊学のときのフィクションの話となりますが、物語の中のいいスパイスとなっており、松陰を身近に感じることができます。
- 著者
- 山岡 荘八
- 出版日
- 1987-07-01
「今、諸君とこの野山の獄に幽囚されている身ではあるけれども、幸いに『孟子』を研究することができるのであるから、これ以上の幸福はあるまい。」(『講孟箚記』より引用)
- 著者
- 吉田 松陰
- 出版日
- 1979-11-08
本書では吉田松陰は痛烈に批判され、頭がおかしい変人だったとされてしまっています。そして明治維新は長州と薩摩のテロだというのです。
- 著者
- 原田 伊織
- 出版日
- 2015-01-14
松陰は脱藩して処分されたり、その考え方から幽閉されたりと多くの挫折を味わいながらも、それを基に思想を形作っていきます。それがどのように行われたか、本書を読めば詳しく知ることができるのです。特に松陰の思想が過激化していったのは獄中のことでした。それをそこで出会った浄土真宗の僧侶が原因だと著者は考えます。このコペルニクス的転回と著者が呼ぶ松陰の思想の転回について、多くの資料を基に明らかにしていくのです。
- 著者
- 桐原 健真
- 出版日
- 2014-12-08
「花柳詩酒に陥る如きは、真に道に志す者の必ず暇あらざる所なり【訳】本当の人としての道に志したものにとっては、飲食街で遊んだり、詩や酒に狂うというような暇は絶対にない」(『吉田松陰一日一言』9Pより引用)
- 著者
- 川口 雅昭
- 出版日
- 2006-12-22
ただ過激なだけではなく、根底には国を憂う愛国心が源にあり、その正義に多くの人々が師と仰ぐほど。松陰が開いた松下村塾からは、後に総理大臣2名、国務大臣7名、大学創始者2名と考えられない程の人材が育っています。歴史的にも一流の教育者だったとも言えるでしょう。
- 著者
- 出版日
- 2013-05-25
「一月にして能くせずんば、則ち両月にして之を為さん。両月にして能くせずんば、則ち百日にして之を為さん。之を為して成らずんば輟めざるなり。【訳】いったん志を立てたなら、一ヶ月で出来なければ、二ケ月でこれを成し遂げよう。二ケ月でも出来なければ、百日をかけてもこれを成し遂げよう。いくらやっても出来なければ、出来るまで絶対やめるものか、必ずやるのです。」(『吉田松陰の名言100 −変わる力 変える力のつくり方−』より引用)
- 著者
- 野中 根太郎
- 出版日
- 2014-09-26
「松陰は、人間に最も大切なものは〝至誠(真心)〟であり、志をたてることが重要であると教育した。」と解説されているように、松陰の言葉には志を貫く強い意志と行動力が見えます。松陰亡き後も、この志が数多くの長州藩士に引き継がれ、明治維新という大改革が成し遂げられることになります。時代背景は違いますが、現代においても何かを成し遂げるために必要なもの、日々の努力の大切さを教えてくれる本です。
- 著者
- 楠戸 義昭
- 出版日
- 2014-10-22
松陰最後の言葉は「心なることの種々くさぐさかき置きぬ思いのこせることなかりけり。 呼びだしの声まつ外ほかに今の世に待つべき事のなかりけるかな。 討たれたる吾れをあはれと見ん人は君を崇あがめて夷えびす払へよ。 愚かなる吾れをも友とめづ人はわがとも友どもとめでよ人々。 七たびも生きかへりつつ夷えびすをぞ攘はらはんこころ吾れ忘れめや。」の5首の歌で結ばれています。
- 著者
- 古川 薫
- 出版日
- 2002-09-10
いかがでしたでしょうか。吉田松陰の人ととなりがよく分かる本を集めてみました。明治維新に多大な影響を与えた松陰をもっと知ってもらえると幸いです。