日本人の心に宿る霊的な要素を探る大著!『日本的霊性』
鈴木大拙が、仏教に含まれる霊性について語った一冊です。普通の人は、空と地面をみても、特別なんとも思わないのではないでしょうか。しかし、大拙はそこにも、霊性が宿っていることに着目しました。
生命はみな天を仰ぐが、それと同時にみなが大地に根を下ろしている。大地はいくら踏んでも叩いても怒らぬ、生まれるも大地からであり、死ねば大地に帰る。大地に関わりのない生命は、本当の意味で生きていない、など天と地が持つ性質について、霊性的な考えが示されている点が面白いですね。このようにして、本書では、日本的、仏教的な考え方から、不思議な印象を与え超越的なものである霊性について紹介していきます。
- 著者
- 鈴木 大拙
- 出版日
- 1972-10-16
他には、自分が南無阿弥陀仏とひとつになるという考え方も、抑えておくべきポイント。南無阿弥陀仏を唱えることで、自己に霊性が加わり、霊的な体験により、自己と阿弥陀仏がひとつとなる事が信心を得ることである、としています。
具体的に霊性を得た姿を想像することは難しいのですが、南無阿弥陀仏を自分で唱えている時、祈りを捧げている時の気持ちが、自分が南無阿弥陀仏とひとつになる入り口である、と捉えると分かりやすいのではないでしょうか。
会話の中に霊性が宿る場合や、自他の対立を超えたところに霊性的な要素が働く場合についての考察は面白い物がありますし、仏になる方法、即非の理論といった部分も、日常生活から離れた禅的な考え方に触れるいい機会であると言えます。
「仏の般若波羅密と説くは即ち般若波羅密に非ず、これを般若波羅密と名づく」
(『金剛経』より引用)
この即非の理論を主観に基づいて論じる部分が特徴で、自他を超えた霊性と結びつけて考えてみても面白いですね。このような考え方に疑問や興味を持った人は、本書を手に取ってみると新たな見識が開けてくるのではないでしょうか。
禅問答とはどのようなものなのか、禅のもつ魅力的な考えに満ちた一冊『禅』
「禅は、われわれ一人一人に本来そなわっているすべての力を解き放つのだ」
(『禅』より引用)
禅の本を読んでいると、今まで自分が考えたこともなかったような新たな考え方に触れる機会があり、自分の中に新たな価値観が生まれたように感じる事があります。それが、本書の紹介する、禅とは本来我々にそなわっている力を解き放つものだ、という考えです。
- 著者
- 鈴木 大拙
- 出版日
禅の教えには、難しいものもありますが、なるほどな、と合点がいくものもあります。例えば、その一例を挙げると、
「空をたたけば響きあり、木を撃てば声無し」
(『禅』より引用)
という言葉があります。これはどういった事なのでしょうか。普通に考えると、空をたたいても音はせず、木を撃てば音が鳴ります。そのように考えると、上記の言葉の反対の状態が普通の状態ですよね。しかし、これを自分の心の中に起こる変化に当てはめてみるとどうでしょうか。杖で空をたたけば、不思議な感じが心の中にわき起こります。これが、空をたたけばひびきあり、という事です。そして、木を撃てば音がするのは普通のことであり、特に自分の中に違和感や感情を生じさせません。これが、木を撃てば声無し、という事ではないでしょうか。この他にも、禅においては、このような考えを超えた見方を要求される事もあります。
似たような例としては、
「白隠禅士はよく隻手(片手)を出し、弟子たちにその声を聴く事を要求した」
(『禅学入門』より引用)
という話もあります。一方では、白隠禅士が隻手を出し、もう一方では、それを受ける弟子たちがいます。このような問いをどう解釈すればいいのでしょうか。禅では、論理を超えた難しい公案に対して、何を思い、何を語るかという事も、大切な事であるのでしょう。
このようにして、禅の言葉の中には、少し考えると面白い考え方が出来るものが多く存在しており、本書を読んでいくと、そのような言葉に多数出会うことが出来ます。深く読み込めばそれだけ得るもののある良著であると言えるでしょう。
「一切衆生は如来の徳相を具有す」
(『華厳経』より引用)
「空手にして鋤頭をとり、歩行して水牛に乗る。人、橋上より過ぐれば、橋は流れて水は流れず」
(『善慧大士録』より引用)
こういった言葉に興味を抱くならば、ぜひこの一冊をおすすめします。
日本文化の中に宿る禅的な精神を探る名著『禅と日本文化』
禅のモットーは言葉に頼るな、ということですが、このような考えは様々な方面の日本文化にも見て取ることが出来ます。本書は、その中でも、美術、武士、剣道、儒教、茶道、俳句が、禅と関わりをもつ点について論じており、繰り広げられる解釈は、面白いものばかりです。
- 著者
- 鈴木 大拙
- 出版日
例えば、鈴木大拙は、不完全な物の中に美を見いだし、鄙びた無虚飾や古拙さの中に説明しがたき美を見いだす事が、日本美術の特徴のひとつだ、と論じています。そして、大拙は、この点に言葉に頼らない禅との共通点を見い出しました。言葉に頼らないものを表現しようとするのは大変難しいことですが、そのような美術の上達方法として、この本では、次のように説明しています。
「十年間、竹を描け、そして自身が一本の竹となって竹を描け、このようにして描く時、竹に関する一切を忘却せよ」
(『禅と日本文化』より引用)
禅では、色即是空、空即是色、一即多、多即一といった境地を目指して修行します。そして、鈴木大拙によると、上述のように、自身が竹と一体化するまで修行することが、優れた美術の要諦であり、説明しがたき美の表現方法だ、としています。
また、この本の中では、武士道にも禅の精神が表れていることが示されており、
「武士道とは死ぬことと見つけたり」
(『葉隠』より引用)
という言葉も、禅と照らし合わせて論じている点が特徴。様々な剣客が語る武士道における死ぬことを色々な角度から分析し、本書では、死ぬ事についての解釈を掘り下げていきます。
特に、剣についても一章がさかれていて、剣をただの武器とみるのではなく、霊的なものが宿った霊感の対象として見る考えを示しています。その辺りは、先に紹介した鈴木大拙の著書『日本的霊性』にも通じるものがあるのではないでしょうか。その他にも、剣の達人であった宮本武蔵が、水墨画に優れていた事も、剣と美術、果ては禅が深い関わりを持っている事を示しているのではないか、という批評が繰り広げられ、読み応えは十分です。
また、茶の湯の中に禅の要素を見つけ出す点において、面白い解釈が与えられている点も読みどころ。茶の湯の極意は、心を清くし、火を起こし、湯を沸かし、茶を喫するまでの事であり、他事あるべからず、とされています。大拙は、このように余計なことを排し、心が他に止まることのない無心の状態は、物事の流れが滞りなく進む上で大切な事であり、仏心の表れでもある、と説きます。
そして、俳句の中にも、禅と似たような精神がある、と論じています。
「釣鐘にとまりて眠る胡蝶哉」
(『禅と日本文化』より引用』)
「朝顔につるべとられて貰ひ水」
(『禅と日本文化』より引用)
このような俳句は深い感慨をもたらすものですが、その一方で、禅的なとらえ方をする事もできます。この言葉に宿る禅的な要素とは何だろうかと疑問に思ったり、この点について興味を持ったりした人は、ぜひ本書を手に取ってみてください。