今川義元は、桶狭間の戦いで織田信長に負けたことで知っている方が多いでしょう。しかし広大な領地を持ち、武田信玄や北条氏康とも同盟を組んでいた義元は、決して愚鈍な人物ではありませんでした。義元の真の姿をぜひ知ってください。

1:足利氏と吉良氏に連なる由緒ある血統の生まれ
今川家は本来源氏に連なる名家です。具体的には室町将軍足利家と同祖ですが、足利家の祖・義康から数えて3代後の足利義氏の庶長子・吉良長氏の次男・国氏が今川を称したことから始まり、義元は国氏から数えて11代目の直系にあたります。
ところで、吉良家とはもちろんあの忠臣蔵の吉良上野介の吉良家ですが、足利家の本家分家内では次のような言葉がありました。「御所が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」
鎌倉時代には正真正銘の足利分家として高い地位を獲得していた今川家ですが、尊氏が将軍となってからは足利家自身の分家である鎌倉公方等が力を持ち分家を凌ぐ権勢を誇っていたため、戦国時代には今川家の優勢はすでに過去の遺物となっていました。
2:お歯黒等の公家風の化粧は高貴な人物の証
今川義元といえば、お歯黒に公家風のいでたちというのが有名でしょう。しかしこの姿は本来は息子・氏真のものといったほうがより正確です。
我々が現在一般的に理解している武士の姿というのは江戸時代に造られたものですが、戦国時代後期までは貴族文化を尊貴とする風習が未だに残っていました。特に今川家はかつて将軍家に近かった者としての誇りもあったことから、すすんで公家風の化粧をしたとも考えられます。
義元は都落ちした公家の保護も行っていたので、公家からも単なる田舎武士とは違う見方をされていたのでしょう。
3:僧出身でありながら武芸もそこそこできた
武家の男子は幼少期から武芸を習うのが一般的ですが、仏門に入るとそれができなくなります。義元は学問をつけることと庶子であったことから幼少期に仏門に入れられますが、彼が還俗・家督を継いだ時はすでに17歳でした。義元が本格的に武芸を習い始めたのはこの頃だと思われます。
しかし有名な逸話として、桶狭間の最期の時に義元は自ら刀を振るって一番槍を狙った服部一忠の膝を斬り、続けてやってきた毛利良勝の指を噛みちぎったという話があるように、義元は決して軟弱ではなく十分武芸に親しんでいたと考えられます。
4:「今川仮名目録」の制定と寄親寄子制度
今川義元、というより戦国大名今川家の内政実績として有名なのが「今川仮名目録」、軍事法としては寄親寄子制度です。
「今川仮名目録」は今川家が幕府傘下の守護大名から戦国大名へと発展するきっかけであり、今川家独自の土地計量法などについて制定されたものです。これによって今川家は衰退した幕府に代わる一大勢力としての顔を見せ始めたことが確認できます。
寄親寄子とは本来世話をする者と庇護を受ける者という意味ですが、戦国時代には有力武士が地侍や浪人の生活を保障する代わりに武士の主君である大名に従わせる一種の強力な法律のような決まりとなっていました。
今川家はこの寄親寄子を軍事にも編入し地侍らを半職業軍人として洗練された組織を作り上げました。これによって宿敵・織田信秀は今川家に生涯敵わないまま野望が頓挫したのです。
5:桶狭間の戦いの目的は上洛ではない?
義元が1560年という段階でどうして尾張に西進したのか。古くは義元が上洛を企図し手始めに宿敵である織田を滅ぼそうとしたという説が一般的でした。しかし現在は義元上洛説を素直に信じることに疑問が持たれています。
義元が西進した当時、敵は決して尾張の信長だけではありませんでした。他にも近江の六角義賢等は親今川とは限らず、のちの信長や武田信玄が京へ向かう際にも必ず畿内付近の勢力に協力を取り付け細心の注意を払ってから向かっていますが、義元はそんな様子もなく単独で行動してます。
今川家と織田家は長きに渡って尾張の領有権を争った宿敵ですが、桶狭間までの数年は信長討伐にある程度注力しており上洛するような余裕はなかったようにも思えます。確かに尾張は上洛には確保しておくべき場所ですが、それ以上に織田との因縁に決着をつけるというもっと地道な理由が西進の目的だと思われるのです。
6:生前すでに氏真に家督を譲っていた
日本には古くから当主が隠居という形をとりながら現当主と共に依然として権力を握り続ける二頭政治という形がありました。戦国大名でいうと後北条氏が最も有名でしょうが、織田信長も早くに嫡子・信忠に家督を譲って尾張・美濃の支配権を与えて独自に部隊を作らせていました。
義元も桶狭間の2年前には氏真に家督を譲っており、この時点で少なくとも名目上は氏真が当主だったのです。この意味はすでに安定している駿河の支配を氏真に任せ、自身は新たな領地である三河(松平=徳川家康から奪った)と当面の敵である信長討伐に専念するということでした。
しかし二頭政治とは前当主の権威の方が依然として勝っていることがほとんどなので、その死はすぐに国を揺るがす大事となります。桶狭間での義元戦死はやっぱり一当主の死を意味するので、今川家は瞬く間に没落していくのです。
7:愛刀が現在重要文化財となっている
義元の愛刀は宗三左文字(そうざさもんじ)と呼ばれる太刀ですが、元は京の三好政長が武田信虎(信玄の父)に譲ったもので、のちに義元の手に渡ります。桶狭間の時もこれを佩いていた義元ですが、討ち取られた際に奪われ信長の手に渡ります。
以後、信長は本能寺の変までこの刀を佩き、のちに秀吉・家康と渡って江戸時代を通じて徳川将軍家の秘蔵となりました。そして明治維新の後に朝廷に献上され現在は信長と信忠を祀る京都府の建勲神社(たていさおじんじゃ)に奉納されています。
この刀は義元が所有して以降、「義元左文字」として知られており現在でも「義元左文字」として登録されています。
8:家康に結婚を斡旋した
徳川家康が幼少期から義元の人質となっていたのはすでに多くの人がご存知のはずですが、家康の正室・築山殿は今川家の分家・瀬名家の血を引く関口家の家であるとするのが一般的です。
この結婚を家康に推薦したのは義元でした。義元はこの時すでに三河に自分の家臣を派遣しており成人した家康を三河に返す気はなかったのですが、こうして家臣筋と結婚させることで松平家を完全に家臣化しようとしていたのです。
9:運命を左右した太原雪斎の存在
有名な戦国大名には軍師のようにブレーンとして主君の傍にいる存在がいました。今川義元でいうと太原雪斎がまさにその存在です。
雪斎は義元の幼少期から学問の師として仕え、花倉の乱の頃からすでに内政・外交・軍事のあらゆる方面で義元の頭脳となっていました。義元の時代に今川家が台頭したのは、彼の功績と言っても過言ではないでしょう。
伝説では幼少期の徳川家康の教育係に古典を教えたともいわれていますが、真偽は定かではありません。彼の死は桶狭間の5年前であり、もし生きていれば桶狭間での戦死はなかったとさえ言われています。
10:結果として間接的に徳川家康の飛躍に貢献
義元の戦死後、今川家は一気に没落・滅亡します。しかし残った今川家の旧臣は多くが武田・徳川の家臣として引き続き領地に残り、最終的には徳川家の下で働くこととなります。井伊直政が最も有名な旧今川筋でしょうが、ほかにも奥平信昌、岡部正綱、朝比奈泰朝(諸説あり)、菅沼定盈らが今川から徳川に与した功臣です。
義元の死によって当主となった氏真ですが、実力こそないものの彼を庇護した家康は駿河支配の正統性を得たことにもなります。家康前半生の台頭は今川義元の死によって成り立ったものといってもいいでしょう。
本書の特徴は、戦国時代が起きる原因になった理由が独特であることです。小氷河期が起こったために、飢餓が発生し米不足となったこと。そこから米を持つ人が強い人物となっていくので、米取り合戦が戦国時代の始まりというわけです。そしてもう一つ、米の他に銭にも注目します。米と銭が戦国にどのように関わってくるのか……。ストーリーの前提から、わくわくしてしまいます。
- 著者
- 宮下 英樹
- 出版日
- 2008-02-06
謎が謎を呼ぶ展開が続くので、読み始めると止まらなくなってしまいます。織田家の次々に繰り出される策略に、わくわくハラハラがとまりません。ミステリー小説のようにあちこちに伏線が潜んでおり、最終的な結末へと辿り着くトリックは見事と言えるでしょう。
- 著者
- 鈴木 英治
- 出版日
- 2010-09-15
今川義元は、領国を治める方法としてしっかりとした法整備を行っていました。今川仮名目録というのは今川氏が作った分国法で、東国では最古のものとされています。義元はこれを完成させ、戦国武将としての地位を確立しました。本書では、そんな義元の領地支配の様子や経済の発展に努めていたことが詳しく述べられています。義元の印象が桶狭間の戦いしかなかった人は、彼の統治の仕方を知り、義元について新たな認識を得られるでしょう。
- 著者
- 有光 友學
- 出版日
幸田露伴といえば小説家ですが、古典や漢文などにも造詣が深かったことで知られています。そんな知識豊富な著者が書く戦国武将たちの評伝は、脱線やうんちくも多く、読み込むことで楽しみながら知識を得ることができるのです。語り口は洒落ていて、例え話も面白いうえに、根底には豊富な文献からの知識が流れているので、内容も充実しています。
- 著者
- 幸田 露伴
- 出版日
- 2016-09-10
今川義元が実は最も天下取りに近かった人物だということが分かる本をご紹介しました。『センゴク外伝』は本編よりもこちらが好きだという人も多い名作です。ぜひ読んでみてくださいね。