根源の代補へと向かうジェットコースター的試論
- 著者
- ジャック・デリダ
- 出版日
- 2005-06-08
エドムント・フッサールの初期の著作である『論理学研究』第一部において記号の概念に関してなされた、のちの現象学的還元につながっていくような区別、すなわち「指標」と「表現」という二つの側面の区別を取り上げるところから出発して、フッサールの現象学がもつ「現前の形而上学」としての性格を明るみに出してゆき、またそこに音声中心主義的な諸前提を読み込んでいく試み。
その作業が直線的に突き詰められていった結果、最終章の「根源の代補」では、「自らが語るのを聴く」ものとしての意識、自己への現前の構造それ自体に穿たれた現前の欠如を代補するものとしての記号あるいは痕跡の運動自体が深く省察され、ヘーゲル的絶対知の閉じられた円環の彼方で開始されるべき、差延およびエクリチュールの思考が宣言されることになります。
原著の出版は1967年。デリダの初期の理論的三部作のなかでも最も手堅い、「ガチな」哲学研究の体裁で仕上げられています。分量的には短いので、初めての通読には適していると言えるでしょう。ちくま学芸文庫版が訳注が充実しており、おすすめです。
科学哲学的内容を含んだデリダの処女作
- 著者
- ["エドムント・フッサール", "ジャック・デリダ"]
- 出版日
- 2014-08-22
言わずと知れたデリダのデビュー作(原著は1962年出版)。フッサールが晩年に執筆した手稿である「幾何学の起源」を翻訳したうえで、デリダ自身が付した長大な序文が本書です。
内容は、数学(特に幾何学)の定理の明証的な意味が、権利上、時間的にも空間的にも普遍的な真理であることを要求する客観的なものであるにもかかわらず、事実上は、特殊的な歴史のなかに存在する誰か(幾何学者)の主観的体験のうちで生成するものである、ということのパラドックスをめぐる歴史哲学的な思弁です。
例として、ピタゴラスの定理を思い浮かべてみましょう。直角三角形の斜辺の長さの二乗がその他の二辺の長さをそれぞれ二乗したものの和に等しいというやつです。このピタゴラスの定理は、歴史上地理上のどの点で発話されたとしても、真なる意味を有します。つまり具体的な歴史の運動から独立した、理念的な意味を有しています。
だから権利上は、ピタゴラスの定理はピタゴラスによって発見されなかったかもしれない、と言うことが可能なのです。しかしながら事実としては、ピタゴラスの定理は、ピタゴラスじゃないかもしれないにせよ、歴史上の誰かによって発見されたものとしてのみ存在し、そのようなものとしてしか私たちのもとには届けられることがない、つまり歴史的なものなのです。このことをどう理解するか。
デリダは、フッサールが問題にしたこの幾何学的明証性のうちに潜む理念的対象性について、それを歴史のうちで相対化して捉えるのでも客観性そのものの条件として絶対化するのでもなく、歴史と客観性のそれぞれの可能性を開くものとして、エクリチュールの次元から捉え直すことを提案します。そこでは、理念それ自体に含まれる歴史性、記憶と想起の条件としての根源的な忘却こそが、哲学的に思考されることになるのです。
このように『声と現象』と似た問題意識を持ちつつも、本書はより科学哲学的な内容を含んでおり、そのためデリダの基本的な狙いさえ押さえておけば、本書をある種のハードなSF小説として読むことも可能でしょう。
西洋思想史におけるエクリチュールの地位をラディカルに問い直す
- 著者
- ジャック・デリダ
- 出版日
- 2012-06-25
原著が1967年に出版された『グラマトロジーについて』は、一篇の試論としては、初期三部作のなかで最大の分量を誇り、またそこでなされるソシュール批判や、クロード・レヴィ=ストロース批判、そしてジャン=ジャック・ルソー読解が孕む批評的かつ理論的な射程の大きさを考慮するならば、デリダの前期思想における最大の達成とみなすべき書物でしょう。
第一部「文字以前のエクリチュール」においては、ソシュールの一般言語学における記号の二つの側面としてのシニフィアン/シニフィエ(意味するもの/意味されるもの)という基本的な区別が、ラング(言語)とパロールとのエクリチュールに対する優越と並び、西洋形而上学の諸前提を温存し反復するものであることが指摘され、その安定性を根源的に揺るがすものとしてのエクリチュールの学、すなわちグラマトロジーの到来が(さまざまな迂回を経て)予告されることになります。
そういった本筋と別のところでも、たとえば第三章「実証科学としての文字学」が、17世紀から18世紀にかけてライプニッツらが取り組んだ普遍言語(ないし普遍記号法)のさまざまなプロジェクトについて、漢字やヒエログリフに関する当時の西洋の知識と併せて簡単な概観を行っており、好事家的興味をそそります。
『グラマトロジーについて』は一種の批評書として読むことも可能で、その場合、第一部を原理論、第二部を作品論として見立てることができます。要約気味に言えば、レヴィ=ストロース批判においてもルソー読解においても、自然と文化の対立を脱構築するものとしてのエクリチュールということが示唆されています。
つまり、自然状態における人間が享受するとされる生きた意味の体験に対して、文明化の手段としてのエクリチュールが暴力を働き、これを文化あるいは社会の名のもとに棄損する……というエクリチュールへの先入見に対するデリダ自身の挑戦がそこには刻まれているのです。
そのようなわけで、デリダのロゴス中心主義や音声中心主義批判のロジックにある程度慣れ親しんできたら、第二部のルソー論を単独で、脱構築の批評的応用の一例としてじっくり読み込んでみることをおすすめします。デリダの鍵概念である代補が、まさにルソーのテクストから取られているという基本的事実を確認するとともに、それが特にルソーによる恋愛に関する記述のなかでどのように作用しているのか(そしてそれをデリダがどのような手つきで解釈していくか)を見ることは、きわめて意義深いことでしょう。