フランシスコ・ザビエルといえば、歴史の授業には必ず登場する宣教師としてお馴染みですが、その詳しい経歴や日本に及ぼした影響はあまり語られてはいません。この記事では、彼の経歴や活動内容、そしておすすめの関連本を5冊ご紹介します。

ザビエルは、1506年4月7日、ナバラ王国というヨーロッパの南西に位置する半島でバスク人の両親のもとに生まれました。地方貴族の末っ子として成長します。
ナバラ王国は小国で、長い間独立を保ってきましたが、フランスとスペインの紛争地となり、1515年にスペインに併合。父のフアンは激動の時代のなか亡くなります。
その後彼は19歳でパリ大学に留学。この頃、イグナチオ・デ・ロヨラやピエール・ファーヴルといった修道士、司祭と知己を得ます。1529年に母を、1533年に女子修道院長だった姉を亡くしたこともあり、聖職者を志すことになりました。
そして1534年、6人の仲間とともに、パリのモンマルトル聖堂で神に生涯をささげる誓いを立て、イエズス会を設立します。
イエズス会は設立当初から世界宣教がテーマ。ポルトガル国王からの依頼でポルトガル領だったインド西海岸へ宣教の旅へ出発します。1541年にリスボンを出発。1542年5月に目的地であるゴアに到着しました。インド各地で宣教を行ったザビエルは、1547年マラッカで鹿児島県出身の弥次郎と出会います。
1548年、洗礼を受けた弥次郎を含む3人の日本人らとともに、ゴアを出発。明の上川島(中国広東省江門市)を経由し、薩摩半島の坊津に上陸、1549年には鹿児島市祇園之洲町へ入ります。
同年、薩摩国の守護大名だった島津貴久に謁見し、宣教の許しを得ます。ザビエルは薩摩を中心に宣教を開始しますが、貴久がキリスト教を禁教とする方向へ傾き始めたため、京都へ向かうことを決意。肥前国平戸、周防国山口と宣教をしながら京を目指し、岩国から堺へ海路でたどり着きました。
1551年、堺の豪商だった日比屋了珪(ひびやりょうけい)と知己を得たことで、小西隆佐らの歓待を受けますが、献上品を持ってきていなかったがために天皇や将軍への謁見をすることができませんでした。
当時京都は室町幕府の権威が失墜しており、荒廃した様子も見られたことから、ザビエルは京都を去り、平戸へ戻ります。大内義隆に献上品の一部を渡し宣教の許可を得た彼は、山口を中心に宣教を開始。大友義鎮(後の宗麟)が治める豊後国でも宣教をおこないます。
日本に滞在して2年が過ぎたころ、インドからの知らせが無いことを気にかけ、インドに戻ることを決意。ベルナルド、マテオら日本人4名を連れ、1552年にインドに戻りました。
日本に滞在中、中国からの影響を強く感じたザビエルは、中国での布教を決意。1552年に上川島に到着しますが宣教は思うようにいかず、病を患った彼は、1552年12月3日に志半ばの46歳でこの世を去りました。
遺体は現在のマレーシア、マラッカに運ばれ、多くの人が彼の死を悼みました。1614年に切断した遺体から鮮血がほとばしるという奇跡が起こったことで、右腕はローマのジエズ協会に安置。現在もゴアのボン・ジェス協会のほか、マカオ、リスボン、ポルト、東京にその遺体の一部が保存されています。
ザビエルが日本に来て驚いたことのひとつに、キリスト教では禁忌とされていた男性同士の同性愛関係が日本で認められていたことが挙げられます。
しかし彼は日本人のことを、悪意がなくて善良で、さらに他の何よりも名誉を重んじる人々だと高く評価しました。これはその後のヨーロッパやアメリカでの日本人観にも大きく影響を与えたといわれています。
ザビエルが日本で宣教活動をおこなって以降、イエズス会士が来日するようになりました。宣教活動以外にも西洋の知識や技術など多くを伝え、日本も変化していくことになりました。
- 著者
- 浅見 雅一
- 出版日
- 著者
- ["ピーター・ミルワード", "Peter Milward", "松本 たま"]
- 出版日
- 1998-11-10
- 著者
- 柳 広司
- 出版日
- 2008-08-12
- 著者
- ラモン・ビラロ
- 出版日
- 2011-06-16
- 著者
- フランシスコ・ザビエル
- 出版日