戦国ブームにより、各地の戦国武将が人気を集めていますが、四国を治めた長宗我部元親もその中のひとり。姫若子と呼ばれた過去も持つ長宗我部元親が、どのような人物で、どんな生涯を歩んだのかを知ることができるおすすめの本を5冊ご紹介いたします。

1:自分が発令した禁酒令を自分で破って家臣に怒られた
豊臣秀吉の天下統一が成される以前、元親は領内に禁酒令を発令したことがありました。しかし事もあろうに元親自身が部下に命じてこっそり酒を城内に運び込んだことがあり、それを家臣の福留儀重(ふくとめよししげ)に見つかってしまいました。
儀重は父の代から長宗我部に仕え、武勇に優れた剛毅な性格として知られていました。遠慮なく元親を叱りつけ、これには元親もぐうの音も出ず素直に酒をやめて、行動を改めたといわれています。
少なくとも信親が戸次川で戦死するまでは、元親は家臣の諫言をよく聞く優れた主君であったという評価が一般的です。
2:サン=フェリペ号が漂着した際に最初に処理をした
秀吉のキリシタン弾圧のきっかけとなったイスパニア(スペイン)のサン=フェリペ号漂着ですが、彼らが漂着の目標としたのが四国土佐、元親の領国です。
元親は土佐沖にてサン=フェリペ号を牽引し船をとどめます。この際に船内の物品が漂流してしまいます。元親はとりあえず上の判断を仰ぐために船員達を抑留し、秀吉に報告しました。
船員達は秀吉自身との面会を求めましたが受け入れられず、奉行の増田長盛が対応し最悪の場合処刑もあり得るとの報告をしました。これがやがて二十六聖人殉教事件にもつながる秀吉の禁教令のきっかけにもなるのです。
元親はこうした交渉下で上の指示を待つしかない立場にあったので、直接交渉に影響を与えたわけではありません。しかし、こうした場面で元親の名が出てくるのは面白いですね。
3:本能寺の変の首謀者説
元親の妻は明智光秀家臣・斎藤利三の妹。元親が四国統一のために信長の意向に背いて毛利と結んでいたことなどから、信長が長宗我部征伐を決定すると長宗我部担当だった光秀は顔を潰されたと感じ、斎藤利三らが主体となって本能寺の変を起こしました。現在一般的に知られている本能寺の変四国黒幕説は、およそ次のとおりです。
しかし最近発見された資料によると、元親は信長に臣従すると意思表示していたことがわかっています。
元親が直接的に手を下すことは距離的にも状況的にもまず不可能でしょう。そこで四国征伐に反対だった光秀や利三を通じて信長を討つことを協議・匂わせたというのが元親の実際の立場だったのではないでしょうか?もっとも、それも決定打と呼べるものではなかったでしょうが。
いずれにしても、本能寺の変を起こした光秀はすぐに秀吉に倒され、元親が望むような四国統一と独自の勢力を築くという野望は早々に崩れ去り、元親は豊臣政権でもやや低い位置に甘んじなくてはならなくなります。
長宗我部氏は渡来人である秦氏の直系子孫、または蘇我氏の子孫であるとも言われています。日本では四国や九州、それに北陸、東北などにも渡来人系の氏族があちこちで地盤を築いていますが、長宗我部氏もその一部、おそらくは純粋な大和民族ではないはずです。
ところで、この秦氏の出自について書かれた『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』には、秦氏の祖先は渡来人の弓月君、そして彼は秦の始皇帝の子孫であるというのです。つまり長宗我部家は始皇帝の血を引く一族ということになります。
ただし、この説はあくまで文献上の記述をそのまま信じた場合の話、そもそも弓月君が伝説上の人物で信憑性は当然高くありません。渡来人の出自は、秦氏が始皇帝なら東漢氏(やまとのあやうじ)は後漢の献帝(三国志の曹操の傀儡)であり、かなり箔がついているものなので鵜呑みにすることはできません。
しかし、中国や朝鮮からの渡来人が日本に帰化した例は後にも先にも多いです。こう考えると、渡来人の血をまったく引かない純粋な大和民族と呼ばれる人達はどれだけが大名にまで発展していったのか興味がありますね。
日本のほとんどの氏族はその氏姓の由来を与えられた土地の名前に求めます。長宗我部も秦氏の末裔とされる秦能俊が土佐国長岡郡曾我部郷の地頭となったことから長宗我部と名乗ったとされています。
土佐には香宗我部という苗字もあるようにおそらくはこの辺りでは割とポピュラーな名前なのでしょう。
ちなみに、ジャン・クロード・バンダム氏の吹き替え等をした声優の曽我部和恭は長宗我部家の末裔なんだとか。
1:美濃斎藤氏と血縁関係がある
美濃斎藤氏といえば斎藤道三などで有名ですが、元親の母は美濃斎藤氏の出身です。美濃の斎藤氏と土佐の長宗我部氏はどのような関係で縁組を結んだのかはよくわかっていませんが、こういう説があります。
現在斎藤氏として有名な斎藤道三らの一族は庶流または僭称にあたり、本来の美濃斎藤氏は下克上によって美濃に追い出されてしまいます。そこで祖先の縁をたどって土佐の一条氏を頼った当時の守護代・利長は一条家と相談の結果長宗我部と縁組を結ぶことにします。
これが長宗我部国親であり、その子が元親です。一見地域も離れて全く関係のないように思える家が実は遠祖を同じくするというのは歴史上よくあることです。
元親自身も正室は明智光秀家臣・斎藤利三の妹である石谷頼辰(いしがいよりとき)の娘であり、長宗我部が単なる土豪ではないという証にもなっています。
2:寺社の保護に熱心だった
長宗我部家は応仁の乱以来、都から逃れてきた一条氏の配下として仕えていました。その下で任されたのは寺社奉行であり、元親もその影響を受けて寺社の復興や保護に力を注いでいます。四国統一の過程でも、失われた寺社に関しては積極的に投資しています。
家臣の谷忠澄らは僧侶出身ですが、のちに元親の下で大いに権限を与えられています。元親は儒学等の学問にも熱心で武功以外にも学問で優れた功績を残した人物には恩賞を与えています。ゲームなどでは風流な海賊というイメージの強い元親ですが、文人肌の繊細な感覚の持ち主だったのです。
3:長男信親の烏帽子親を織田信長に頼む
土佐統一を果たした元親は、母や妻が美濃斎藤氏であるとの縁から織田信長の正室・濃姫の親戚であると称して信長と同盟を結びます。そして元親は長男の千雄丸の元服の際、烏帽子親を信長にお願いするように使者を送ったのです。
『土佐物語』によると、元親は身分の低い中島可之助(なかじまべくのすけ)なる人物を使者としました。信長は可之助の名前が変わっていることを気に入り、「元親は鳥無き島の蝙蝠(井の中の蛙なのにうるさい奴)」と評しましたが、可之助は「蓬莱宮の寛典に候」と答え信長を感心させます。
自分の子供に奇妙丸(信忠)なんて名前をつける信長ですから、こうした一見変わった人物を認める度量の広さを元親は読んでいたという説がありますが、いずれにせよ千雄丸は信長を烏帽子親として元服、信親と名乗り、元親の嫡子となるのです。
4:豪族を手なずける手段は養子作戦
甲斐の武田信虎・信玄親子、毛利元就もそうでしたが、室町・戦国時代にかけて同じ地域に数多くの土豪が割拠し権力を争うという状況に、一族を送り込んで乗っ取るという方法を長宗我部家も取っていました。
父の時代には香宗我部(似ているけど元は敵)、吉良(駿河の吉良氏とは別系統)をすでに家臣化していましたが、元親も讃岐の香川、土佐の津野に息子を送り養子として乗っ取りに成功します。
彼らは要するに家臣であり親戚であるため、裏切ることのない忠実な家臣として別家を興す形となりました。しかし元親は後に豊臣政権の九州征伐で信親を亡くすと優秀だった次男・香川親和を幽閉してしまい(まもなく死去)、三男・津野親忠を冷遇(後に弟に殺される)、暗愚とされる四男・盛親を後継者に指名しました。
元親晩年の錯乱で長宗我部の一体感は崩れてしまい、最期は宗家断絶となってしまうのです。(後に分家が宗家を継ぎ、現在も長宗我部家は存在している)
5:とても厳しい「長宗我部元親百箇条」
最晩年、元親は後継者の盛親と共に領内に分国法を発令しています。「長宗我部元親百箇条」と呼ばれるこの条例には、数々の禁止事項が掲載されています。
例えば、喧嘩・口論の禁止。流言蜚語の禁止。賭博禁止・犯罪者の犯人隠匿に関しては極刑を以て対処する。隠田の禁止。密輸の禁止。はたから見てもとても厳しい内容が記されていますが、僧侶に対しても、寺社に賊を保護した場合には僧侶自身も処刑だということが書かれています。
当時、長宗我部家は養子作戦の崩壊によって家臣団が分裂するという状態にありました。盛親が家督を継ぐことになったのも元親個人の願いによるものですが、乱暴者だった盛親は家臣からも好かれておらず、元親は盛親の相続をどうにか納得させようと苦心していました。
元親自身もこの2年後に亡くなることを考えると、分国法は元親が盛親のためにしてあげられる最後の手助けだったのでしょう。なお、盛親の家督相続は豊臣家には最期まで認められていなかったとされています。
- 著者
- 天野 純希
- 出版日
- 2013-11-20
- 著者
- 長宗我部 友親
- 出版日
- 2012-10-10
- 著者
- 三浦 伸昭
- 出版日
- 2014-09-01
- 著者
- 山本 大
- 出版日
- 2010-05-07
- 著者
- 近衛 龍春
- 出版日
- 2010-04-15
ゲームなどの影響もあり、注目度の増している長宗我部元親。その人生は苦難に満ちながらも、力強い輝きを持つものでした。様々な観点から彼を知ることができる作品ばかり、四国の勇将の歩みを、ぜひ感じてください。