石田三成は、秀吉の側近として、あるいは関ヶ原の戦いで負けた西軍を率いた人物として知られていますが、その人となりはどうだったのでしょうか。今回は、三成に関するおすすめの本5冊をご紹介して、その素顔に迫っていきます。

1:身長は156センチだった
関ヶ原の戦いで敗れた石田三成は、京都で処刑後に京都大徳寺三玄院に葬られていました。1907年に改葬される時に発掘され、研究された時に、身長は156センチ程度で骨格は細く、華奢な女性のような体格だったと発表されました。戦国武将の力強いイメージとはかけ離れているようです。
2:真田幸村の父親である真田昌幸とは縁戚関係にあった
三成の妻は、元々豊臣秀吉にに仕え、のちに三成の家臣となった尾藤二郎三郎の娘です。三成にとって義理の父親にあたる尾藤二郎三郎は、後に宇多頼忠と名乗ります。真田昌幸の娘は、尾藤二郎三郎の甥と結婚したとされています。直接の血縁関係ではありませんが、親戚関係にあります。
3:徳川家康の孫である水戸黄門は、石田三成を高く評価している
徳川家康の伝記が書かれるようになると、三成の評価は下げられ、悪者とされました。江戸幕府の創始者である徳川家康を持ち上げるためには、徳川家康が倒した豊臣秀吉を悪者にするのが一番ですが、関西では圧倒的な人気があるので、それはできません。だからこそ、豊臣秀吉の家臣である三成と、豊臣秀頼の母親である淀殿が悪者にされました。
しかし、水戸黄門は「石田三成は豊臣の家来として主君に忠義を尽くした忠臣である。徳川の敵だからと言って憎むべきではない」と高く評価していたとされています。
4:佐和山城主になった三成は、領主として村人の心をつかんでいた
一般的に冷たく、官僚的なイメージの強い三成ですが、佐和山城下の「石田三成村掟条々」には違った一面が見られます。掟を農民でも読めるように仮名書きにしたり、取次役などの役人を通さずに直訴をできるようにしたりしました。農民にとっては人情味のある、良い領主だったと考えられます。
5:三成の戦下手を決定付けたのは、忍城攻めの失敗
1590年に豊臣秀吉の命を受けた三成は、佐竹一統と共に武蔵国、忍城攻めに向かいました。北条攻めの終盤に差し掛かり、北条方の拠点は小田原城、忍城などを残すのみとなり、それ以外は豊臣秀吉に降伏していました。
三成は戦い以外の業務を担当しており、戦に直接指示を出す立場ではありませんでした。彼は水攻めを発案しますが、水位が上がらず、失敗します。小田原城の明け渡しの11日後の7月16日、ようやく明け渡しとなります。大将でもなく、ただの目付け役にも関わらず、この失敗が結果的に「石田三成は戦が下手」のイメージを作ってしまいました。
6:豊臣秀吉に九州の大名にすると言われたが、断ってしまった
豊臣秀吉がなくなる3ヶ月程前、1598年5月22日の家臣にあてた文書「宇津木文書」に、「筑後、筑前両国を与え、九州の物主にしてやる」と言われたが、「私の代わりに佐和山城主になる適任者も、秀吉殿の御用を務められる人も少ないので、このまま殿のそばに残る」と言って断ってしまったと書かれています。
三成は、自分の出世よりも豊臣の家臣として生きる方が大事だと考えていました。
7:石田三成の旗印である「大一大万大吉」は、石田氏の先祖の石田為久が使っていたものである
石田為久は、1184年に木曽義仲を討ち取り、鎌倉幕府創業に功績のあった相模の三浦氏の一族です。相模国大住郡石田(神奈川県伊勢原市)に住み、石田姓を称しました。石田為久は、三成の9代前と言われています。
「大一大万大吉」は、「一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は幸福になれる」という意味です。
- 著者
- 童門 冬二
- 出版日
- 著者
- 岩井 三四二
- 出版日
- 2015-01-16
- 著者
- 三池 純正
- 出版日
- 2009-06-10
- 著者
- 太田 浩司
- 出版日
- 著者
- 司馬 遼太郎
- 出版日
- 1974-06-24
石田三成についての本を、5冊ご紹介しました。この5作品を読めば、三成は利害ではなく、自分の信じる正義感や道徳感に基づいて行動した人、当時としては稀にみる構造改革をやってのけた人、まわりに惑わされることなく最後までぶれなかった人、という今までのイメージとは異なる人物像が見えてくるでしょう。歴史上のひとりの人物について複数の本を読んでみるのも、楽しいものですよ。