豊臣秀頼は、父秀吉と母淀殿に挟まれ、なかなかクローズアップされることのない人物です。豊臣家最後の人物としか知らない人も多いと思います。そこで生存説も残っている秀頼について、もっとよく知れるおすすめの本をご紹介!

1:幼名が「拾」なのは兄が早死にしていたため
豊臣秀吉と淀殿の間には秀頼の前に1人男児が生まれていました。幼名を「棄(すて)」と名付けられ、鶴松と呼ばれましたが、2歳で亡くなってしまいます。そのため「棄てた」子どもを「拾う」という意から「拾(ひろい)」と名付けられました。
2: 幼児のころの機嫌を理由に侍女が処罰される
豊臣秀頼の父、豊臣秀吉はなかなか子宝に恵まれず、老年になってできた秀頼を溺愛しました。秀吉は1598年に「中納言(秀頼)様の気に障る者は死ぬほどたたきなさい」と手紙を送り、当時5歳の秀頼の好き嫌いを理由に侍女を4名処罰しています。
3:秀頼にはもう一人の兄がいた
豊臣秀頼には「秀勝」とういう名の兄がいました。秀勝については、1575年(天正4年)10月14日に死んだ「伝豊臣秀吉子」という寺伝が現在の滋賀県長浜市内の妙法寺に残されています。また琵琶湖の竹生島にある宝厳寺に1574年(天正2年)秀吉が家族と奉納した帳面があり、そこに「南殿」「石松丸」の名が残されており、その南殿が側室、石松丸が秀勝と伝えられています。
4:秀頼の父と淀殿は不義密通ではなく秀吉の命令の可能性
豊臣秀頼と父の秀吉は、あまりの風体の違いから実子ではないという噂がありました。また不義密通によってできた子供であるという風聞も出ています。
近年の研究の中で、服部英雄氏は著書の中で、秀吉が淀殿に「非配偶者間受精」を命じたとし、「鶴松、秀頼のうち、少なくとも鶴松は秀吉が承認していた」と述べています。ただ、秀頼は淀殿の「独断かまたは秀吉の内諾を得ていなかった」ため、「生まれる子は茶々1人の子でよい」と秀吉は北政所に手紙を送ったことから素直に喜んでおらず、そのためそこに関わった者を処刑・弾圧しました。
5:「明良洪範」が秀頼の体格の根拠資料となった
豊臣秀頼の体格について、明確な記述は残っていません。現存する資料の中で明良洪範の中に秀頼の体格についての記載があります。それによると、身の丈6尺5寸(身長約195センチ)、体重は43貫(約161キロ)と相当な大柄な人物です。
6:関ヶ原の戦いは両軍とも「秀頼公のため」
石田三成と徳川家康が覇権をかけて争った関ヶ原の戦いですが、石田三成側は総大将の毛利輝元が秀頼の居城大阪城に入城して保護する立場をとり、この時に秀頼の親衛隊が石田軍に同行させています。対する家康側も秀頼の命令を受けて出陣する形をとっていましたので、どちらも「秀頼公が認めた」戦いという大義名分を掲げていました。
7:大阪の陣で裏切者を城壁から突き落とした
近年オランダ東インド会社駐日オランダ人の書簡が発見されました。それによると秀頼の部下であった武将が徳川軍に寝返るために城に火をつけたが、逃げる前に秀頼によって城壁から突き落とされたとあります。その後「火を消すことは不可能」となり、「戦う勇気を失って」自害したと記されています。
8:大阪城の外堀北側から秀頼の遺骨が発見された
1980年、工事現場で発見された頭蓋骨が、その後の調べで豊臣秀頼のものではないかと判定されました。理由として埋葬された周囲には貝殻が敷き詰められ、高価な副葬品も発見されていることから貴人のものであると考えられること、歯並びも良く、20歳から25歳の健康状態の良い若者であること、すぐそばから秀頼の愛馬である「太平楽」と呼ばれる大型の馬のものと思われる遺骨も発見されていることなどが挙げられます。
現在その頭蓋骨は「秀頼の首」として京都の清凉寺に埋葬されています。
- 著者
- 福田 千鶴
- 出版日
- 2014-09-22
- 著者
- 曽根 勇二
- 出版日
- 2013-05-17
- 著者
- 高橋 敏
- 出版日
- 2016-03-18
- 著者
- 前川 和彦
- 出版日
豊臣秀頼が生きていたなら……という、歴史の「もし」を考えることは楽しいですよね。秀吉と淀殿の影に隠れている秀頼について、ぜひ興味を持っていろいろな本を読んでみてください。