小早川秀秋といえば、誰もが関が原で裏切った人物という認識だと思います。しかし秀秋は本当に単なる気弱な裏切者だったのでしょうか。今回は秀秋に関するおすすめ本を4冊集めてみました。ぜひこの機会に秀秋の実像に迫ってみてくださいね。

1:幼名は辰之助と名乗っていた
21年の生涯の間に辰之助→秀俊→秀秋→秀詮と4回名前が変わっています。元服時に秀俊を名乗り、小早川家に養子に入ってから秀秋に改名したようです。そして関ヶ原の戦いの後に秀詮と名を改めるのです。
2:身長は180cmと高かった?
靖国神社に収められた秀秋所用の甲冑が巨大な事から推定されます。ですが実は等身大と言われる秀秋の木像も残っており、こちらは150cmほどしかなく、どちらが正しいかは分かっていません。
3:秀秋の通称・金吾は秀秋の官職の中国名である
秀秋は秀吉の養子であった事から破格の出世を遂げました。その際の官職である「従三位 権中納言権左衛門督」の左衛門督(さえもんのかみ)は中国では執金吾(しっきんご)と呼ばれていたために「金吾中納言」と呼ばれるようになります。
4:本来は「毛利秀秋」になるはずだった
中国地方の大名・毛利輝元には跡継ぎの男子がいませんでした。そこで実子が誕生したばかりの秀吉は養子の秀秋を毛利宗家の養子にと動き出します。
そこで待ったを掛けたのが輝元の叔父の小早川隆景でした。毛利宗家に関白秀吉の養子を迎えれば毛利が乗っ取られると考えた隆景は逆に「殿下の子を小早川の跡継ぎに」と願い出て聞き入れられました。
そうして「小早川秀秋」が誕生したのです。
5:関ヶ原の戦いの際の小早川家の旗印は後世の創作だった
白地に黒の違い鎌の旗印は関ヶ原合戦屏風では知られていますが、実は現物は無く、文書による裏づけもない事から後世の創作と考えられているようです。
ならばこの旗印のモチーフはと言うと秀秋所有の陣羽織に違い鎌の家紋が背中にあしらわれている事から、これを旗印として創作されたようです。
ちなみに小早川家の旗印は本来「左三つ巴」です。
6:秀秋は大谷吉継に呪い殺された説がある
秀秋は関ヶ原合戦から2年後の1602年に21歳の短い生涯を終えます。死因はアルコール依存症による酒の飲み過ぎとの事ですが、吉継に呪い殺されたとの話があるのです。
それは、関ヶ原にて予測していたとはいえ秀秋に裏切られ大谷隊が壊滅し、自害する際に吉継が従者に「人面獣心なり。(人間の顔をしているが心は獣)三年のうちにたたりをなさん!」と秀秋の陣の方に向かって自刃し怨嗟に満ちた最後を遂げます。
これは秀秋が3年以内に亡くなったこと、また関ヶ原から亡くなるまでの2年間が苦渋にまみれたものであったことから祟り話もあながち嘘ではないのかも知れません。
7:秀秋の肖像画は死後に描かれた
肖像画の秀秋は武将と言うよりは公家のような柔和な雰囲気を醸し出しています。
これは秀秋の冥福を祈って秀吉の正室でかつての養母であった北政所が描かせたそうです。
豊臣秀吉の親戚として大きな期待を受け、秀吉の養子となった秀秋は、たくさんの愛情を受けていました。領国では善政を行っています。この時代のことは、なかなか他の書籍では書かれることもないので、秀秋の人柄に触れることができますよ。しかし酒に溺れ、秀吉に諫められることもあったようです。
- 著者
- 黒田基樹
- 出版日
- 2017-02-04
小早川秀秋については、関ケ原で裏切った人物という印象が強く、それまでの人生について考えたことがない人も多いかもしれません。しかし本書では、秀秋が小早川隆景に出会い才能を開化させていく姿が読み取れます。
- 著者
- 矢野 隆
- 出版日
- 2015-10-01
まず定説を覆すことは、小早川秀秋は開戦直後に東軍に味方し、そのため関ヶ原の合戦はあっという間に終わってしまったということです。ぐずぐずと迷っていた秀秋に家康が問鉄砲を放ったということが伝えられていますが、開戦時には裏切っていたわけですから、その話もフィクションなのでしょう。問鉄砲の話は、関が原より80年ほど後の史料にしか出てこないそうです。
- 著者
- 白峰 旬
- 出版日
- 2014-10-10
秀秋の人生は、秀吉、家康といった実力者たちに、いいように使われ捨てられるという悲しい出来事の連続です。特に慶長の乱での秀吉による扱いは酷く、読んでいるこちらも辛くなってしまうほどです。まだまだ幼い16歳の秀秋にとって、初陣が朝鮮出兵の総大将というのはどれだけのプレッシャーがあったことでしょうか。そして立派に成し遂げたつもりでも評価されない虚しさには心が痛みます。
- 著者
- 江竜 喜信
- 出版日
小早川秀秋について知ることができたでしょうか。単なる裏切者ではない秀秋は、実は聡明な若者であったのかもしれませんね。ぜひいろいろな本に触れ、歴史を見る目を養ってみてくださいね。