バッハといえば言わずと知れたクラシック音楽の作曲家です。音楽の授業では必ず取り上げられ、音楽室には必ず肖像画が飾られています。そんな彼の生き様や生活の様子などがわかる書籍を紹介します。

1:作曲家の前にオルガンの演奏者として知られていた
当時、彼は作曲家である前に、オルガンの演奏者として知られていました。彼亡き後は、そのことは忘れ去れてしまいましたが、オルガン演奏者としても評価されていたのです。
2:ビッグダディーだった
彼は生涯に20人の子供を授かりました。しかし、その内10人は幼くして亡くなってしまいました。成長した数人の子供たちは、父と同じく音楽の世界へ進みました。
3:無類のコーヒー愛好家だった
彼は1日数十杯飲むほどのコーヒー好きでした。彼の遺品リストには、コーヒーカップとポットが含まれているそうです。
4:数字の「14」がお気に入りだった
彼の名前のアルファベットを数字に変換した際の合計が14になるためだといわれています。BACH(バッハ)はB=アルファベットの2番目 A=1 C=3 H=8 合計14となります。
5:バッハはドイツ語で小川という意味である
彼の名前はドイツ語で小川という意味。偉大な業績を残しているわりに、少し一般的で小さな領域の印象を与えます。そこで、ベートーヴェンは「彼は小川ではなく大海である」との格言をのこし、彼を評しました。
6:かなりの勤勉であった
彼はとても勤勉だったといわれています。それを表す逸話として、彼の幼少期の出来事があります。彼には年の離れた兄がおりました。兄は作詞家であり、バッハもそんな兄の姿に憧れ、音楽の世界に興味がありました。ただ、幼いバッハには楽譜などはみせてもらえませんでした。そこで彼は兄の楽譜集を盗み出し、月光の下、夜な夜な楽譜を書き写し音の世界に独学で触れていったのです。
7:生まれつき視力がよくなかった
彼は生まれつき視力が弱かったとされています。彼の従兄のうち何人かも同じ状態であったことから遺伝であろうと考えられています。晩年はほとんど見えていなかったといわれています。
8:麻酔無しで視力回復の手術に挑み失敗した
彼は晩年ライプツィヒ市で音楽監督官を務めていましたが、視力低下の影響を受け、ライプツィヒ支当局は後継者を探し始めていました。焦りを感じた彼は、藁にもすがる思いでとある医者に手術を頼みます。ところが、それはとんでもない手術でした。麻酔がないまま、目に針を刺して目の中のゴミなどを取り出すという大変荒いものでした。その3か月後に彼は失明どころか、脳卒中も引き起こしこの世を去ったのです。
9:音楽の見聞を広めるために旅をした
今とは違い、当時は旅をするのは命がけの事でした。交通手段もままならず、道中追いはぎや窃盗に合うこともしょっちゅうでした。また、各所で待ち受ける検問所も厳しく、簡単に通過できるものではありませんでした。そのような状況下でも、彼は楽器や楽譜と向き合うだけではなく、旅を通して音楽の見聞を広めようとしたのです。
10:神にささげるために曲を作り続けた
彼とよく比較されるのは、同時期に活躍していたヘンデルという作曲家です。彼はバッハ以上に名声がありました。またその死後も名をはせていました。この違いとして、ヘンデルは民衆向けを考慮した曲作りをしていたのに対し、バッハは神に捧げることを前提とした曲づくりをしていたためといわれています。
- 著者
- J.N. フォルケル
- 出版日
- 1988-01-18
前衛的音楽から伝統的音楽に至るまで、様々なジャンルに挑んできたバッハ。ですがその生涯での本分は教会に仕える宮廷作曲家です。そこで彼は『主よ人の望みの喜びよ』や『マタイの受難曲』など神を通して魂に訴えかける曲を残しています。聖歌音楽かとしての一面だけに深く迫っており、彼の新しい一面に出会える書籍です。
- 著者
- 礒山 雅
- 出版日
- 2010-04-12
- 著者
- 樋口 隆一
- 出版日
- 著者
- ["鈴木 雅明", "加藤 浩子"]
- 出版日
- 2002-08-01
- 著者
- 鈴木 雅明
- 出版日
- 2004-04-01
「音楽の父」と称されたバッハは多くの時代や人々に感銘や影響を与えてきました。そんなバッハに関する研究や書籍が多数存在します。彼の魅力や歴史、音楽性に至るまですべてを知り尽くせる内容ばかりです。