現代語訳で『五輪書』が丸わかり!
『五輪書 (いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ5)』作者の城島明彦は1946年生まれの作家であり、ジャーナリストでもあります。早稲田大学政治経済学部を卒業後、東宝株式会社を経て1973年ソニーに入社します。1983年に「けさらんぱさらん」で文芸春秋「オール読物新人賞」を受賞し、作家デビュー。
少女向け小説のレーベルである集英社コバルト文庫や、光風社、扶桑社などで小説を発表する傍ら、『ソニー燃ゆ』といったノンフィクション作品やビジネス書も発表。ジャンルにとらわれず、多くの作品を残している作家です。
- 著者
- 宮本武蔵
- 出版日
- 2012-12-03
そんな彼がとにかく日本の名著をわかりやすく読者に伝えようとした「いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ」の5作目である本書。『五輪書』を現代語に訳したほか、内容をかみ砕いて書いてあるため、より宮本武蔵の思想が理解しやすい状態になっています。『五輪書』が書かれたのは江戸時代。現代人では単語はある程度単語の意味は理解することができますが、内容を理解することは難しく、このシリーズに収録されるべき内容であり、現代語訳が必須な1冊です。
『五輪書』は地水火風空の5巻構成。地之巻は序文と総論、水之巻は剣術について、火之巻は戦術論、風之巻は他の流派の話、最終巻である空之巻の兵法の本質とはという内容で締めくくられています。兵法書なので当然武器の扱いや、敵を倒すための術が書かれていますが、武蔵自身の武勇伝が書かれているのが面白いところ。実力に裏打ちされた思想であることがより一層伝わります。
兵法書ではあるものの、その哲や精神が現代に通じる部分があるのが『五輪書』。空之巻は剣術に向かうための精神論を語っており、「空を道とし、道を空と見る生き方をすべき」という一文を、本書では「知力と気力を磨き上げることで、迷いなき晴れた心こそ真の空と呼べる」(『五輪書 (いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ5)』より引用)と訳しています。
人の心の持ちようはいつの時代も変わらないもの。己を磨き上げたその先に、求めていた姿があると武蔵は説いているのです。
武蔵が生きていた時代は剣で身を立て、命のやり取りも行われていました。現代では、社会で生きるために、様々な術を身に着けていかなければなりません。知識は人から得ることができますが、心の在り方を改めて学ぶ機会はなかなか無くなってきます。『五輪書』は武芸者だけではなく、現代人の心の道すらも示してくれる書です。現代語訳でより身近になった武蔵の精神に触れてください。
人気作家、司馬遼太郎が見た宮本武蔵とは?
本書の作者、
司馬遼太郎は1923年大阪府大阪市の生まれです。筆名は、中国前漢時代の歴史家、司馬遷に及ばない日本の者、という意味でつけられたもの。1942年に旧制大阪外国語学校蒙古語学科に入学するも、1943年11月に学徒出陣により仮卒業。1945年本土決戦のために移動した栃木県佐野市で、陸軍少尉として終戦を迎えます。
復員後は新聞記者として活躍し、作家デビューは1955年。本名の福田定一名義で『名言随筆・サラリーマン』を出版。司馬遼太郎名義では、1956年講談倶楽部賞に応募した『ペルシャの幻術師』が受賞、称賛を受けます。当時は伝奇小説を書いており、山田風太郎と並び将来を嘱望される書き手として注目を集めていました。
そして1960年『梟の城』で直木賞を受賞。1962年より『竜馬がゆく』『燃えよ剣』など、人気歴史小説を次々と発表。「司馬史観」と称される独自の歴史観が読者に支持され、人気となります。1993年には文化勲章を受賞しました。
1996年に腹部大動脈瘤破裂のため72歳で死去。司馬遼太郎はNHKの大河ドラマの原作に、最も多く選ばれた作家です。交友関係も広く、同時代に活躍した池波正太郎は親友で、愛読書は『鬼平犯科帳』だったのだとか。意外にも宮崎駿監督の『となりのトトロ』などを高く評価しており、対談なども行われています。
司馬遼太郎は武蔵を主人公とした短編小説『真説宮本武蔵』も執筆しています。本書は武蔵の人生を追いながらも、独自の考察が加わった、まさしく司馬遼太郎の目から見た武蔵像を楽しむことができるものです。
- 著者
- 司馬遼太郎
- 出版日
- 2011-10-07
作品は、司馬遼太郎自身が武蔵の生家を訪ねるところから始まります。取材し、文献などの資料から感じ取れる武蔵を、徐々に紙面に映していきます。生まれてから13歳の決闘、佐々木小次郎との戦いから晩年まで。数々の逸話を英雄として崇めるのではなく、ただ淡々と事実を記載していく文面から、武蔵をより深く知ろうとする司馬遼太郎の意志のようなものが感じ取れます。
本作では小説ならではの展開は少なく、あくまでも「司馬遼太郎が資料から感じた武蔵像を描く」ことに徹底しているところが特徴です。経済に明るく、客を丁重にもてなすなど、礼節を重んじる姿が描写されるのは、他作品では見られません。
出世欲があるというのは意外でしたが、勝負ごとに強いという姿は、まさしくイメージする武蔵像そのもの。様々な顔を見せる武蔵が、創作の中のキャラクターではなく、人間として読者の中に浮かび上がってきます。
諸説ある巌流島の戦いについても言及されている本作。天才と呼ばれた宮本武蔵という人物を、稀代の歴史小説家の目から見られる、貴重な一冊です。
長年愛されてきた宮本武蔵小説といえばこれ!
吉川英治は1892年神奈川県で生まれました。新聞連載を中心に作品を発表し、市民から大きな支持を得ている大衆作家です。幼少期は不遇であり、父の事業の関係で神奈川県内を転々。事業の失敗や裁判沙汰で家庭が荒れ、異母兄との不仲もあり、作文の才を認められながらも小学校を中退。独学しながら職業を転々とします。
1910年に上京、浅草に住み始めます。小説の公募をしており、1914年に『江の島物語』が『講談倶楽部』に3等当選。講談社の賞にも小説3編が入賞します。1921年より東京毎夕新聞社で『親鸞記』などを執筆するも、関東大震災が発生し、新聞社が解散。『面白倶楽部』で『剣魔侠菩薩』を連載し、専業作家としての生活が始まります。1925年より吉川英治の名前で作品を発表しますが、その発端は「吉川英次」を出版社が誤植してしまったのを、本人が気に入って筆名にしたのだとか。
『坂東侠客陣』や『神洲天馬』が多くの読者を獲得し、一躍人気作家になったあとは、歴史ものや伝奇小説などを執筆。1935年8月より朝日新聞で本作の連載を開始、連載は1939年7月まで続けられ、人気を得た作品となりました。
本作の連載終了の翌月より中外商業新報(現在の日本経済新聞)で『三国志』の連載を開始します。他紙にも『源頼朝』や『梅里先生行状記』を連載。1942年より海軍の戦史編纂に携わります。敗戦後はショックのあまり、筆が取れない日々が続きました。
親友の菊池寛の求めにより、『高山右近』『大岡越前』を執筆。1950年より7年にも及ぶ超大作となった『新・平家物語』の連載が開始されました。その後『私本太平記』などを発表し、1960年に文化勲章を受賞。『私本太平記』連載中に肺がんを患い、1962年に70歳で死去しました。
- 著者
- 吉川 英治
- 出版日
- 2013-01-28
武蔵の小説といえば、作品が発表されてから80年以上が経過しても、やはり吉川英治のものが良いという声が多く聞かれます。実は現代人の持っている武蔵像や巌流島の戦いの知識は、吉川版『宮本武蔵』が元になっているといわれているほど。武歳の幼名である「たけぞう」は、史実に記載はなく、「時間に遅れることで小次郎をじらし、船の櫂を武器に戦った」といわれている巌流島の戦いでは、武蔵は遅刻していないというのが定説です。
とはいえ、基本的な流れは史実に添っている本作。関ケ原の戦いから佐々木小次郎との巌流島の戦いまでが書かれていますが、主題は武蔵の人生を追うのではなく、人間的成長を書くことにあります。そこに幼馴染の又八やお通、沢庵和尚といった魅力的なキャラクターが加わることにより、一層宮本武蔵の生涯が華やかなものになっていくのです。
吉川の書く武蔵は、父無二斎の教育のせいか、手の付けられないほどの乱暴者として登場。裸一貫で関ケ原から故郷に戻りますが、粗暴故に厄介者扱いをされてしまいます。騒動を起こした時に放浪していた僧の沢庵宗彭(たくあんそうほう)と知り合いますが、罰として白鷺城に3年間幽閉されてしまうことに。ひたすら書を読み続けた武蔵は学問に目覚め、己を見つめなおしたことで人間的に成長し、やがて兵法鍛錬の旅に出ます。
新聞連載だったこともあり、読者をつかんで離さない物語の引きが見事な本作。武蔵の勢いそのままに、グイグイと物語の勢いに飲み込まれていきます。国民的作家の紡ぐ武蔵の物語、至高の時間をお楽しみください。