マンガの神様、手塚治虫とはどんな人だったのでしょうか。何本も連載を抱え鬼のように仕事をしていた、速読の達人だったなど、さまざまな逸話が残っています。今回は手塚治虫の実像に迫る本ばかりを集めました。手塚マンガがより一層胸に迫ることでしょう。

1:マンガの神様は嫉妬の神様でもあった?
数多くの漫画家が影響を受けている手塚治虫ですが、彼自身が才能溢れる人物であったのと同時に、その他の著名な漫画家へ痛烈な批判を浴びせることがしばしばありました。
たとえば、同じく戦火を生き延びた水木しげるに対しては彼の作品『墓場鬼太郎』を読んで、階段から転げ落ちるほどの衝撃を受け、以降は敵対心をむき出しにしたと言われています。 石ノ森章太郎には『仮面ライダー』を読んで、「才能がない」と告げて石ノ森を泣かせて漫画家引退を決意させるほどの衝撃を与えていたと言われています。
2:日本のアニメーション産業の功罪を牽引した漫画家だった?
手塚は当初こそ漫画の連載にて大成功を収めていましたが、60年代になってだんだんとテレビが発達していくと漫画よりもテレビに注目が集まることになります。 彼はそこで『鉄腕アトム』や『鉄人28号』といった自身が手掛けた漫画をアニメ化することで逆転を図ろうとします。
当初はアニメといえば子供が見るもので実写ドラマには遠く及ばないという認識でしたが、彼の作品はそんな認識を打ち破るほどの数字をあげて現在まで続くアニメーション制作のビジネスを打ち建てました。 しかし宮崎駿は、これを日本のアニメ業界の功罪両面備えた業績だと主張します。
手塚は当初伸び悩んでいた利益をキャラクターグッズ販売などで補ったり、安い人件費で制作陣を長時間労働に従事させるなど、職人気質ゆえの待遇の悪さや彼自身が昼夜を問わずひたすら制作に励むために下の人間の労働雰囲気を形成してしまったというのです。
彼の時代から作り出された職人気質のアニメ制作は、その技術力の高さと相まってさまざまな疑問を後世に投げかけているのかもしれません。
3:自分が書いた漫画は細部まで覚えている
『ブラックジャック』を連載していた頃、彼はアメリカに出張に行かなくてはならない時がありました。しかしこの時に『ブラックジャック』の原稿は手つかずでした。そこで手塚はアシスタントに背景、自分はキャラクターだけを書いてつなぎ合わせるということを思いつきます。
当時は電話しかないのでどうやって意思疎通をとったのかというと、彼はアシスタントに方眼紙を持ってこさせ、本棚にあった『三つ目が通る』を取らせ、あるページ数を正確に言い当ててその背景を利用して『ブラックジャック』に応用させなさいと指示したのです。
この調子でアシスタントは次々と指示通りの背景を完成させていったのです。 一方の手塚もキャラクターを書き上げ、締め切り直前には『ブラックジャック』が完成していたのです。彼の記憶力もさることながら、このように電話だけで情報を全て伝えきるというのは、コミュニケーションツールが発達した現代ではそれほど聞かない話ですね。時代を感じるエピソードです。
ちなみに、国際電話の通信量はご存知の通りですので、せっかくもらった原稿料はすべて電話代に飛んだとも……。
4:凄まじい言い訳癖と、感情の起伏が激しい性格の持ち主だった
漫画家にとって編集者の締め切りは何よりも重要なものです。しかし、時間をまともに守らないのが手塚の性格で、彼は言い訳の天才になっていました。
居眠りをしていて編集者が手塚を起こしたら「横になって眠気をとっていただけ」、小松左京との対談に4時間遅刻したら「大阪空港で飛行機が爆発した」、原稿が間に合わずとうとう編集者が窓から原稿を投げ捨てた時に「僕だって大学を出てるんですよ!」と意味不明なことを言うなど、素直に謝るということをしていません。
また彼は失敗を指摘されると激昂しどこかへ行く、締め切りが近づくと編集者から逃れるために事務所のブレーカーを落として居留守を使ったり、海外まで高跳びしてしまう可能性まで指摘されている、約束をしてもすっぽかすなんて普通という相当に破天荒な性格をしていたので、普通の人はとても彼についていけなかったでしょう。
上述のように、殺す勢いで迫らないと本気で相手にされないというのが事実だったのです。
5:医者になるか漫画家になるか迷っていた
幼少期にした決断と母の助け 幼少期から漫画を愛し、ファーブルを彷彿とさせる雰囲気をまとった昆虫少年であった手塚ですが、それだけ勉強に関心があった分学力も相当なものでした。
彼は幼少期に授業中に漫画を書いて怒られたことがあるほど(当時は現代の何倍も馬鹿にされること)でしたが、のちに大阪帝国大学の医学部に進学し、博士号まで取得します。 しかし実験の合間にも漫画を描き続け、やはり漫画を書くことに心が寄ってきます。
母は手塚にただ一言「あなたは漫画と医学のどちらが好きなの?」と聞くと、彼は「漫画だ」と答えました。母はこれにあっさりと同意し、以後の彼は何の躊躇もなく漫画家になることを決意したのです。
優れた頭脳を持っていた手塚ですが、安定した道よりも自分が幸せだと思える道を歩み、やがて日本の漫画界を牽引する存在をなったのです。
6:死ぬまで漫画を描きたかった
手塚は60歳という現代にしてはあまりに早い死を迎えこの世を去ります。彼は生涯700余りの作品を世に発表しましたが、最期まで引退という言葉はありませんでした。
彼は胃癌に侵され、妻や子に制止されても連載を続け、病院のベッドで原稿を書き上げていたと言います。やがて昏睡状態に陥りましたが、意識が回復するとまた筆を執ろうとしていました。 彼塚は漫画に全身全霊を捧げ、未来へのメッセージとして常に発信し続けました。
決して普通の人生を送っていたとは言えませんが、彼の作品にかけた思いは何十年も経った現在まで永く読まれ続け、現在まで彼を目標に日々筆を執る作者は後を絶ちません。
- 著者
- 手塚 治虫
- 出版日
- 1997-05-20
- 著者
- 福元 一義
- 出版日
- 2009-04-17
- 著者
- 手塚 治虫
- 出版日
- 著者
- 丸山 昭
- 出版日
- 著者
- ["伴 俊男", "手塚プロダクション"]
- 出版日
- 著者
- 出版日
- 2011-07-08
どの本を読んでも手塚治虫の天才ぶり、超人ぶりについて書かれています。本当にすごい人だったのでしょうね。手塚マンガが好きな人も、読んだことない人も、マンガが読みたくなるはずです。