100年に及ぶ戦国時代を終結した豊臣秀吉は、一農民から天下人にまで駆け上がった立身出世の代名詞的存在です。今回は、様々な偉業や伝説を持つ豊臣秀吉の華々しい生涯を詳しく知るための本を5冊、ご紹介します。

1:あるときは源氏、あるときは平家に擦り寄った
木下藤吉郎から羽柴秀吉と名前を変更した秀吉は、征夷大将軍(代々は源氏の職位)になろうとし時の足利将軍(源氏)の養子を目論みましたが、将軍に断られました。そこで征夷大将軍の上の位の関白になるべく、平氏の藤原家、次いで同じく平氏の近衛家の養子になり、晴れて天皇から官位である関白を頂戴したのです。平氏を自称していた主君の織田信長の後継者であることをを天下に知らしめることとなりました。
2:秀吉のあだ名は本当に「猿」だったのだろうか
秀吉には「猿」というあだ名が定着していて、その由来は主君である織田信長が「サル」と呼んだというのがありますが、実際には信長は秀吉のことを「禿げ鼠」と呼んでいました。「サル」と言うのは秀吉が以前今川家の家臣に仕えていた時にそこで飼われていた猿のマネをして、人々の喝采を浴びたという秀吉独特の人心把握術があったからと言われています。
3:側妻はお姫さまに限った
百姓上りの秀吉は、その上昇志向(コンプレックス?)から、上流出身の女性(すなわちお姫さま)を好んだので、「姫好み」と言われました。秀吉が側室にした女性は16人ですが、そのほとんどは大名の娘、つまりは姫たちです。その中に、浅井長政の姫で、秀吉が永年憧れていたお市の方の娘であった茶々(後に唯一の子、秀頼を産んだ淀君)はいました。尚、口説き上手の秀吉が唯一口説けなかったのがお市の方だったと言われています。
4:城造営趣味で築城が大好きだった
戦国時代には城は権力者の力を示す象徴であり武将のロマンでした。秀吉も築城が好きでした。秀吉が造営した城の数は大小100以上あると言われています。中でも大阪城、肥前名護屋城、聚楽第、伏見城、長浜城、山崎城、和歌山城、小田原城、墨俣城が有名です。
5:秀吉の本当の死因とは
1598年61才で亡くなった秀吉の死因については、ペスト、梅毒、腎虚、大腸がん、肺炎、毒殺など、多くの説があります。しかし、中でも最も有力な説は「脚気」とされています。
6:弟が名参謀だった
秀吉は異母弟の秀長は、秀吉の名参謀で軍事・政務を補佐し、ライバル徳川家康はじめ諸大名との調整役として重宝がられていました。その秀長没後そのような黒子の役目をする名女房役を欠いたために、秀吉の運命は傾いたのでした。
7:秀吉は指が6本あった
秀吉は多指症で、手の指が5本ではなく6本ありました。そのため「六ッめ」と蔑称されていたようです。ちなみに、日本人の1000人に1人は多指症だと言われています。
物語は高野聖とよばれる行商人が、不思議な小僧と出会うところから始まります。
- 著者
- 司馬 遼太郎
- 出版日
- 1973-05-29
河原ノ者とは、中世日本で皮革制作を生業の主として土木作業や野犬狩りをしていた人々のこと。非人は物乞いや行商人で共に被差別階級とされていました。秀吉は針売りの行商から身を立てた人物で非人の出だと括る著者の考えは、後の秀吉の奇行や思想に繋がる仮説の一つだと思います。
- 著者
- 服部 英雄
- 出版日
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と天下統一の歴史は三英傑によって終結しましたが、最終的に太平の世を作ったのは徳川家康。以来江戸幕府260年続くわけですが、政権を執った徳川幕府は、信長、秀吉時代の歴史を改ざんして、家康に優位な歴史を残していったというのが、この研究会の主張です。確かに世界的に見ても、政権政府が自分に都合の良い歴史的解釈を残しているのは事実です。
- 著者
- 出版日
秀吉が行ったとされる刀狩りや太閤検地などの政策についても、これまでの通説と現在の新説が記述されています。特に惣無事令は存在しなかったとする新説には、驚くことでしょう。何年かのちには、教科書も記載が変わるのではないかと推測されています。
- 著者
- 日本史史料研究会
- 出版日
- 2015-08-06
- 著者
- 加藤 廣
- 出版日
- 2009-06-10
天下統一を成し遂げた戦国の偉人豊臣秀吉。その栄華を誇った人物像は魅力的で、今なお人気の高い戦国武将です。永遠の謎とされる出生の秘密など、華麗な人生の陰に知られざる顔も多い人物。様々な作品から豊臣秀吉の実像を思い描くのは、歴史好きの永遠のテーマかもしれません。