上杉謙信の影に埋もれがちな上杉景勝。その知略で景勝を助け上杉家を守り抜いた直江兼続。ふたりの関係、考え方、上杉家の在り方が詳しく分かる本を集めましたので、ぜひ読んでみてください。

1:天下統一を志せなかったのは、越後の内乱があったから
信長や秀吉のように、天下統一などの壮大な目標を掲げていた大名がよく注目されますが、他の大名に関しては「ただ自分の支配地を広げて国を豊かにしたい」という目先の利益のために動いていました。景勝もその一人で、豊臣秀吉が台頭すると「領地の安全さえ保証されれば逆らう必要はない」とし、秀吉に敵対する佐々成政の討伐に協力しています。
それに豊臣の権威を借りるのはもう一つ重要な意味がありました。越後はずっと前の祖先の時代から守護の権力が強く、各地の豪族が割拠する状態が続いていました。景勝の家督相続後、恩賞が少ないと言って反乱を起こした新発田重家の反乱は特に重要で、東北の伊達や蘆名の支援を受けても8年もの間反乱が続いていたのです。
彼はこうした事情から、天下へと進みたくても進めないという事情を抱えていました。これは主に東北・北陸・九州といった織田・豊臣による天下統一の範囲が及んでいない地域に顕著で、これらの地域は江戸時代になってもまだ戦国時代のような群雄割拠の雰囲気が続いていました。
2:人前で笑わなかった
景勝は、家臣の前では絶対に笑わないという厳しくプライドの高い一面がありました。越後という反乱だらけの不安定な地域に生まれ若くして家督争いという命の危機を経験した景勝は、妄りに自分の威厳を落とすようなことをしたくなかったのでしょう。
3:実子の世話を直江家に頼んだ
景勝は生涯を通じて、女性との関係をあまり多く持っていませんでした。そのため側室との間に実子・定勝が生まれ時には、その養育を兼続・お船夫妻に任せています。生母も、正室の菊姫も亡くなっていたため、景勝には実子を育ててくれるような女性がいなかったのです。
このエピソードから、景勝がいかに兼続を信頼していたのかがわかります。
1:伊達政宗の確執について
直江兼続は本来は上杉家の一家臣に過ぎませんが、秀吉自身が気に入っていたことから秀吉の元に出仕したことがあります。この頃、後の関ヶ原の戦いにも通じる確執エピソードが生まれます。
伊達政宗が治める会津では純金が取れることで有名でした。この時政宗は諸将に純金自慢がしたくて、小判を持ってきては披露していました。この席には兼続もその場に同席しています。
他の大名が手にとって小判を観察したのに対し、兼続は扇子で小判をひっくり返してみるだけでした。そのことに対し政宗が「自分が大名じゃないからって遠慮するなよ!」と自慢半分で彼をからかいますが、兼続は「これは失礼、私は若い頃から謙信公の薫陶を受けて軍配を握った誇りがあります。こんな汚いものには触れたくありません。」 というと、さっさと帰ってしまいました。
後になって景勝がそのことを叱ると「あいつは殿下(秀吉)さえ恐れるゆえに態度が鼻につくから懲らしめてやった。」と得意満々だったといいます。
2:「愛の兜」には殺戮という意味も含まれていた?
直江兼続といえば「愛」という字がモチーフの兜で有名ですが、その由来は一般的に「愛染明王」からきていると言われています。 まず、明王とは密教の中で信じられている仏神で、悪を討つ力を持った怒りの表情が特徴です。
愛染明王もその一つです。怒りによって煩悩や情欲を鎮めて悟りに変える仏だと信じられている他、恋愛や縁結び、家庭円満を司るという、恋愛を肯定する神ともされています。 しかし当時の愛染明王には、数々の武器を手にしており怒りによってあの世に人々を送るという意味も込められていたと噂されています。
3:日本最古の『史記』『漢書』『後漢書』は兼続の所蔵品だった
兼続は朝鮮出兵の際に朝鮮の将からその読書量を評価されるほどの愛読家で、京都・妙心寺の南化和尚から中国・南宋時代の版本である『史記』『漢書』『後漢書』を譲られていました。 これらが本格的に評価されるのは彼の死後からであり、会津米沢藩の興譲館という学問所で保管されています。
また兼続は南朝梁の『文選』と自ら木版にて出版しており、これも一緒に保管されています。
- 著者
- 坂上 天陽
- 出版日
- 2008-08-12
- 著者
- 三池 純正
- 出版日
- 2009-05-02
- 著者
- 火坂 雅志
- 出版日
- 2010-04-09
- 著者
- 藤沢 周平
- 出版日
- 1985-09-27
- 著者
- 童門 冬二
- 出版日
実はかなりの名将であったと考えられる上杉景勝を見直すきっかけになればと思います。直江兼続に関してもいろいろな逸話が残っていて面白いもの。彼らの実像はどこにあるのか、いろいろ考えてみてください。