新しい文学を拓いた作家たち。無頼派とは
無頼派とは、第二次世界大戦終結後に今までの文学を批判し、同じ傾向を示した作家たちの総称です。象徴的な同人誌がなく、定義が曖昧なため範囲が難しい派閥でもあります。代表作家は坂口安吾や太宰治、織田作之助などです。
無頼派の潮流を生み出したのは「新戯作派」という言葉でした。それは『戯作者文学論』や織田作之助への追悼文『大阪の反逆 – 織田作之助の死 – 』などの坂口安吾の文に発見されます。
坂口安吾は江戸時代の俗的な作品群「戯作」に表れる精神性を重要視しました。当時は漢文学や和歌などが正統派とされていましたが、洒落や滑稽などの江戸っ子たちの身に近いものを文学としたのです。当時としては革新的だったこの考え方に、多くの作家が影響され、新たな文学の道を拓いていきました。
日本人の国花、桜の二面性を坂口安吾が描く
短編小説『桜の森の満開の下』は、幻想的な描写が印象に残る坂口安吾の代表作です。桜といえば華やかで、春の象徴として描かれることの多いものですが、坂口安吾はそういう楽しいだけの面ではなく、桜には恐ろしい一面があるのだといいます。
気に入るものは奪って自分のものにしていた盗賊は、ある日通りがかった美しい女を気に入り、その旦那を殺し女を自分の女房にしてしまいます。盗賊を全く恐れず、逆に指示をしてばかりの彼女はやがて、都を恋しがるようになりました。
盗賊は女の望みを聞いて渋々都に下ったのですが、女は更に都で首を並べて遊ぶ「首遊び」を所望します。らちがあかないと嫌気が差し、盗賊が峠へ帰りたがり、女も承諾。峠へ帰ることができることに嬉しさを隠せない盗賊は、最も嫌っていた満開の桜の下を帰路として選ぶのですが……。
- 著者
- 坂口 安吾
- 出版日
- 1989-04-03
「彼は女の顔の上の花びらをとってやろうとしました。彼の手が女の顔にとどこうとした時に、何か変ったことが起ったように思われました。すると、彼の手の下には降りつもった花びらばかりで、女の姿は掻き消えてただ幾つかの花びらになっていました。そして、その花びらを掻き分けようとした彼の手も彼の身体も延した時にはもはや消えていました。あとに花びらと、冷めたい虚空がはりつめているばかりでした。」
(『桜の森の満開の下』より引用)
残酷かと思えば女に付き従う盗賊。美しくわがままな女。登場人物の二面性は、坂口安吾が言いたかった桜というもののイメージの二面性に他ならないような気がします。
日本人は桜が大好きで、春になれば花見に心躍りますが、昔から桜の恐ろしさに言及した作品は多くあります。その中でも、坂口安吾の『桜の森の満開の下』は幻想的でありつつ、薄ら寒さも併せ持っており、桜のもつ気質を見事に表現した名作となっています。最後に花びらと虚空しか残らないという描写は物語を美しく収束しています。
言わずと知れた太宰治の代表作!
太宰治の代表作『人間失格』は純文学の中でも名高い名作です。夏目漱石の「こころ」と並んで今でも根強い人気があり、映画化もされました。
感情の度合いがわからず、人が怖いという大庭葉蔵の手記という設定の本作品。彼は幼少期からそういった性質を持っていたため、道化となって自分を偽って過ごしてきました。しかし友人のひとりに見破られそうになり恐怖し、酒とタバコに溺れる毎日を送ります。
- 著者
- 太宰 治
- 出版日
- 1990-11-20
成長し、進学のため上京した葉蔵は、なお破滅的な毎日を送っていました。いろいろな女性と関係を持っては離れていく葉蔵。そんな葉蔵にも結婚まで決意した女がいたのですが、彼女の身に起こった事件の絶望から、再びアルコール中毒となった彼は睡眠薬を使って自殺を図ります。薬として使ったモルヒネの中毒になり、送られたのは脳病院でした。自分はまともな人間ではないとのレッテルを貼られたことを悟った葉蔵は、こう言います。
「いまに、ここから出ても、自分はやっぱり狂人、いや、癈人(はいじん)という刻印を額に打たれる事でしょう。
人間、失格。
もはや、自分は、完全に、人間でなくなりました。」
(『人間失格』より引用)
葉蔵はどこで間違ってしまったのでしょうか。幾人もの女性と関係を持った葉蔵は、人をまっとうに信じることができない性質のため、彼女たちを愛していたわけではありません。それでもやはり葉蔵は人を愛し信じたいと願い、その欲望に責め立てられます。
しかしこの小説の最後で、実は葉蔵に関わった人々は葉蔵のことを信じ、愛していたことがわかります。彼はたくさんの愛を受けつつも、それを知ることなく人生を送っていくのです。人を信じることができず、自分を偽っている人たちは多くいることでしょう。人を愛したかったと切望する葉蔵は、実は太宰治自身の望みだったのかもしれません。