天外の家の道は破滅へ至る道。 手塚治虫の「奇」妙な物語『奇子』
- 著者
- 手塚 治虫
- 出版日
- 2010-11-12
「真相がわかったところでどうってことでもないがね……おれにひとつの決着をつけたい」(『奇子』より引用)
昭和24年、天外仁朗(てんげじろう)を乗せた復員船が横浜港に着きます。戦争に行っていた彼にとっては5年振りの日本です。迎えに来た母・ゐば、妹・志子(なおこ)との再会もそこそこに、仁朗が向かったのは東京のGHQ本部でした。面会相手は参謀本部第2部の日系中尉。仁朗はマニラの収容キャンプにいる間に、米国の工作員になっていたのです。
郷里に帰った仁朗は、戦争に行っている間に生まれた妹・奇子(あやこ)を見て驚きます。兄・市郎(いちろう)の妻である義姉・すえと同じ特徴があったのです。仁朗は天外家の裏切りの痴情を、仲間を裏切った自身に重ねて苦悩します。そんな時、奇妙な指令が送られてくるのです。それは指定の日時に男を案内し、その後死体を列車に轢かせる、というものでした。
仁朗は任務をこなしましたが、死体を運ぶ時に付着した血を奇子に目撃されます。轢死体は自殺か他殺かが不明な事件としてニュースになりました。事件に仁朗が関係していると察知した天外家家長・作右衛門(さくえもん)は、捜査の手が及ぶ前に奇子を土蔵の地下室に幽閉してしまいます。奇子の証言さえなければ天外家の体面は揺るぎません……。
本作は奇妙な迫力をもって読者に迫ってきます。それは一つには、閉鎖的な村社会を旧家の権力が牛耳るという旧態依然とした専横政治を余さず描いているためでしょう。戦後の農地改正法、特別措置法で衰えた旧家の力に、なおもしがみつく作右衛門と市郎の狂気。それがいたいけな少女を閉じ込めるという、人非人のロジックを組み立てます。
また一つには、実際に起こった事件をモチーフにしているところです。主軸となる霜川事件は、国鉄総裁・下山定則の身に起きた下山事件がモデル。手塚は下山事件を扱った松本清張の『日本の黒い霧』を参考にしたらしく、霜川事件はかなり詳細に描かれます。他には、実在した組織として戦後日本で暗躍したという米陸軍防諜部隊やキャノン機関等も登場。読んでいるとそのリアルさに驚きます。
轢死体で発見された男は、共産主義者の集まりの支部長でした。そのことからこの一件は、当初GHQによるいわゆる赤狩りの走りかと思われましたが、この事件が思わぬ展開を見せていきます。仁朗は一体何に関わってしまったのか。天外家の狂気はいつ終わりを迎えるのか。途方もない年月幽閉され、子供の精神のまま成熟していく奇子の運命はいかに。
『奇子』については<『奇子』5分でわかる怪しい4つの魅力!手塚治虫のトラウマ級エロホラー【ネタバレあり】>の記事でも詳しく紹介しています。気になる方はぜひご覧ください。
お前を愛してるんだ!その愛の理由を手塚治虫が問う『やけっぱちのマリア』
- 著者
- 手塚 治虫
- 出版日
「おれにゃ、とうちゃんがいるんだ。かあちゃんなんかいらねえ。それによォ、マリアがいるじゃんか」(『やけっぱちのマリア』より引用)
主人公ヤケッパチこと焼野矢八は、父親と2人暮らしをする少年です。母親を幼い頃に亡くし、顔も覚えていません。短気で喧嘩っ早く、中学校で不良グループにも一目置かれる一匹狼です。ある日突然、ヤケッパチは保健体育の授業に熱心に聞き入り、「赤ん坊はどこから生まれるのか」と問い詰めます。そして彼はなんと自分が妊娠している、と言い出すのです。
勿論ヤケッパチの体に変化はありませんが、彼は頑として譲りません。そのうちにヤケッパチの体から幽霊のようなものが出てくるようになります。その霊体の正体は、母の愛に飢えたヤケッパチが、自分の中に生み出した女の分身(子供)でした。霊体は便宜的にアダルト人形に乗り移らされ、マリアと名付けられます。
マリアはヤケッパチを生みの親として、また異性としても無垢に慕います。そんなマリアに社会性を教えるため学校へ通わせることになります。学校一の美少女を凌ぐ転校生マリアに生徒は大騒ぎ、硬派で鳴らした一匹狼ヤケッパチも巻き込まれることになります。
連載当時、永井豪『ハレンチ学園』が一世を風靡し、セクシー路線の漫画が次々と発表されていました。本作もその文脈で手塚が描いたものですが、それらとは少し毛色が異なります。手塚治虫の三大性教育漫画に数えられる本作は、学園ラブコメの体裁を使って、お色気を交えながらも真剣に性の問題に言及しているところが特徴です。
性について描かれる本作は、もちろん肉体的な問題も扱いますが、ヤケッパチの精神についても描かれます。具体的にはエディプスコンプレックスです。エディプスコンプレックスとは身近な異性の母を愛し、同性の父を敵視するという男児心理。ところが母親と死に別れたヤケッパチは、コンプレックスの一方、つまり父が欠けた状態で成長しています。中学生という青年への移行期に、分身として女のマリアが登場する意味とは?
マリアは母親の不在を補填する存在として生み出されました。その名前も聖母を連想させます。心理学者のフロイトに依れば、男児は成長体験を通してエディプスコンプレックスを克服するのだそうです。そうだとすれば、ヤケッパチはマリアとどのような関係を築き、またどのように成長していくのでしょうか。
彼女は悪魔か女神か?手塚治虫の描く美しい女に恐れる『ばるぼら』
- 著者
- 手塚 治虫
- 出版日
「都会が何千万という人間をのみ込んで消化し、たれ流した排泄物のような女――それがバルボラ」(『ばるぼら』より引用)
主人公の美倉洋介は、新宿駅の片隅で浮浪者と出会います。それは端正な顔立ちとは裏腹に、汚い身なりをした中性的な女性でした。ばるぼら と名乗るその女はヴェルレーヌの詩を諳んじてみせます。美倉は芸術家の感性でそんな彼女を気に入り、自宅に連れて帰ることに。
「なにが時をみじかくするか――活動だ。なにが時をたえがたく長くするか――怠惰だ。なにが負い目に陥れるか――停滞と受け身だ。なにが利益をなさしめるか――長く思案せぬことだ。なにが名誉をまもらしめるか――保身だ。そしてなにがおれのジレンマを救うのか――刺激だ!」(『ばるぼら』より引用)
美倉は流行の耽美主義作家です。彼が出会ったどの女とも異なるばるぼら。その野良猫のような奔放な振る舞いが、美倉の創作意欲を刺激します。
そしてもう一つ……彼は、人間以外の事物が美女に見えるという異常性癖の持ち主でした。バルボラが来て以来、美倉の創作意欲は増大し、そして異常性癖による数々の不可思議な体験に飲み込まれていきます。
本作は耽美作家の美倉が、現実とは思えない蠱惑的で不条理な出来事を体験するお話です。美倉の一人称の体裁を取っていて、まるで私小説のようでもあります。本編には詩の引用や詩的な表現が多数盛り込まれ、ただの漫画に留まらない、芸術性を強く意識させられます。それは耽美作家の表現というより、手塚の芸術家の側面の発露であるように思えます。
本編では「変身」が重要なファクターになっていて、何度もそれが示唆されます。美倉は安部公房、カフカ、アポリネールに言及します。いずれも「変身」をモチーフにした作家や詩人です。それにそもそも事物が美女に見えるという美倉の異常性癖が「変身」的でもあります。美倉が芸術家として刺激を求めることもある種の変身願望だと言えるかも知れません。
そして飄々として中性的な ばるぼらも、劇中で鮮やかに女へと「変身」。バルボラが美倉の生活に与える変化も同様に捉えることが出来ます。倉の生活は全てがバルボラを中心に「変身」していくのです。美倉に不条理をもたらし、そしてその不条理を打ち破るバばるぼら。彼女は一体何者なのか。そして美倉をどこへ導こうとしているのでしょうか。