明日いきなり世界が消滅したとしても別に誰も困らない
- 著者
- マルティン ハイデッガー
- 出版日
「存在するものはどうして存在しているのか」とか「どうして何も存在しないのではなく、何かが存在しているのか」。
こういった問いは、誰しも漠然と心のうちに抱いたことがあるでしょう。しかし多くの人は、そういう問いを人前で公然と述べることに躊躇します。なぜでしょうか。そういうことを公の場で言ってしまうひとは「子ども」だとみなされるということを、みなよく知っているからです。
ところが、20世紀を代表するドイツの哲学者マルティン・ハイデガーは、この『形而上学入門』という書物の冒頭で、この問いを「形而上学の根本の問い」とか「すべての問いのなかで第一の問い」などと呼んで取り上げ、高く評価します。
たしかに、この、まるで「どうして世界は明日にも消滅しないのか」と言わんばかりの問いには、それを言うことでいろいろなことを終わらせてしまう力が備わっています。言い換えれば、この「問い」の持つ力は「別の始まり」(Ein anderer Anfang)を与えるための力でもあるわけです。つまり、再び「子ども」になるための力です。
本書においてハイデガーは思考の「別の始まり」を求め、この最初の「問い」から出発したのち、徐々に哲学史への沈潜を深めていくことになります。「20世紀を代表する哲学者」が自らの思考のリセットボタンを押す、まさに哲学史にとっても決定的であるような瞬間(前期哲学から後期哲学へと「転回」)が、この書物には記録されているのです。
コギトに辿りつけなかったらいったいどうなっていたのか
- 著者
- ルネ デカルト
- 出版日
「われ思うゆえにわれあり」は多くの人が知っている言葉です。しかし同時に、その意味がきちんと理解されることの少ない言葉でもあります。
デカルトは『方法序説』において、これまでの哲学において正面から扱われず放置されてきた難問、すなわち「確実な知識をもち正しく判断することができるようになるための、誰もが使える方法はないのか」という問題にひとつの答えを与えました。それも非常にシンプルな答えを。
まずすべてを疑ってみる。感覚的に受け取っている世界のイメージも、自分がここに存在して、何かを思考しているという当たり前の認識さえも疑う。そして、そのようにあらゆることに懐疑を抱いたとしても、疑っている(=思う)自分自身という「作用」の存在までは懐疑しえないということに、ある瞬間気付く。これが「われ思う」(cogito)の意味です。
しかし、市井の人々に読まれることを意図し、啓蒙的に書かれた『方法序説』にはデカルトのそのような「懐疑」の、いわば結果報告しか書かれていません。他方、専門家向けに書かれたこの『省察』では、コギトに辿りつくまでのデカルトの思弁と懐疑のプロセスがそれなりに整理されたかたちで記述されています。特に第三省察以降、コギトを疑いえないことを認めたとしても、それが現実存在することを言うためには完全な存在としての神が必要であるということが明らかになるにつれて、一度は確信されたはずの「われあり」の認識が、再び危険な思弁の側へと傾き始めます。もしコギトに辿りつけなかったら――そんな戦慄させるような空想を許す点で、本書は時代を超越した古典の名に相応しい一冊でしょう。
過去は存在しないもしくはすべてが過去である
- 著者
- アンリ ベルクソン
- 出版日
『物質と記憶』は20世紀のフランスを代表する(ノーベル文学賞も取った)哲学者、アンリ・ベルクソンの第二の主著です。第一の主著『意識に直接与えられたものについての試論』は一言でいえば、時計が示すような外在的で客観的な時間に対して、私たちの意識に内在する主観的な時間(「持続」と呼ばれます)が存在する、ということを主張するものでした。
『物質と記憶』では逆に、たくさんの「持続」が共存することができるのはいかなる背景のもとでなのか、という点が考察されます。その考察の結果、「純粋記憶」という途方もない概念が見出されることになるわけです。私たちのもつすべてのイマージュ(image)は決して過ぎ去ることのない過去のなかで共存し、結び付きあうことによって、宇宙自身の記憶、潜在的な知覚のデータベースとでも言うべきものを形成していきます。するとある意味で、私たちが「いま」と呼ぶような、多様な生成としての「持続」も、それ自身は無力でありながらも遍在する、そのような全体としての過去すなわち「純粋記憶」の一断面にすぎない、ということになるでしょう。私たちの時間についての考え方を根底から揺さぶる一冊です。